[羅勲児]歌人生 40年悟り ? ただただ演習だけということ

[ニュース 2005.09.18 17:24 10']より
(韓国語の原文・羅勲児画像付き、はこちらですが、元のが無くなれば見れなくなります)

"デビュー40年を来年に控えて記念アルバム"
"私の姿は、もしかしたら南大門市場でタオル首に巻いて商売をする事。生まれ変われば歌をやらないということです"
"南珍との競争は結局共生共存(共存共栄)… 勝敗ですか? 各自の道を行っただけで…"
"運動をしなければ 2時間も公演出来ないし… スターがお腹がヌッと出てはいけないでしょう?"
〔チェ・スンヒョン記者 vaidale@chosun.com〕
〔写真=金チャンジョン記者 cjkim@chosun.com〕

一匹の ‘虎’が座っていた。
去る9月14日午後、汝矣島 MBC 放送センターで会った羅勲児(58)。
素朴な慶尚道抑揚で挨拶を交わす彼と握手をすれば手がジーンとしてくる。
ジーパンに黒いジャケットの上に現われる体つき, ぜい肉一つない。
見開いた目の周辺の張り切っている肌でも歳月の跡は捜しにくい。髪の毛とひげを染めている白い光は頑丈な 39年歌人生を象徴する ‘勲章’だ。

-来年になればデビュー 40周年だ。気持ちがどうなのか? 長年の歳月に悟ることがあったら・・。
特別な事は無い。演習, 演習, 演習だけという事ぐらい小学校4学年程度で 皆 感じるはずだ。‘何事をしても演習だけが最上の道’という事を毎回悟っている。

-舞台以外の所ではどうしてこんなに会うのが大変なのか?
スターとは何か? きらきら輝く星だ。そして夢を売る人だ。観客は夢を買いに来る人で, 私たちは夢や星でなければならない。大衆がスターに対してあれこれすべて分かってしまえば何の楽しさがあるか?

1966年デビュー, 音を折って拗って(こぶしを入れて)感情を入れる唱法を創造した ‘トロット皇帝’は、まだ刃が鋭い。
歌人生 40周年を控えて新曲で満たされた記念アルバム ‘友(ポッ)’(参考画像はこちら),と ‘ニューフリースタイル(New Free Style)(参考画像はこちら)’を売り出したし, 去る 9月10日には漢江ノドゥルソム島で光復 60周年記念大型公演 ‘羅勲児のアリス’(17日夜 9時40分MBC放映)を繰り広げて、 1万4000人余りの観客を集めた。
‘江村に住みたいね’, ‘はるか遠い故郷’, ‘故郷の駅’, ‘水車は回るのに’, ‘故郷無情’…。
沢山の故郷の歌を歌って節日(中秋)なら尚思い出すこの生まれつきの音師。
3年余りぶりにインタビューに応じた彼から心深い所の話を一つ二つ引き出した。
(おおきに注釈:前回インタビュー記事はこちら

-レコード社で小使い生活をして栄養失調にかかるほどに苦労したあげくデビューしたという話があるが・・。
(おおきに注釈:ネットでその記事を読んだ私達ファンが真偽を激論した末、結局「羅勲児の名前が出るサイト」記載を止めた経緯がある。)
ハハ, すべて嘘だ.昔の記者達が小説を書いたのだ。
貿易商をしていた父のお陰で釜山の我家はかなり金持ちだった。私が幼い頃, 釜山で最も高い建物が 4階だったが、父が 3階建ての建物を持っていたからね。
昔の記事には私が靴磨きをしたという内容もあるのには笑える。
大学へ行った兄に続いてソウルに来たし, 徐羅伐芸術高校時代、学校で‘歌が上手なやつ’でうわさが立ってオアシスレコード社長の前で歌った。すぐに ‘愛は涙のたね’が収録されたアルバムを吹きこんだ。いきなり広まって、ろくに新人時代が無かった。

-羅勲児といえば、 1960〜70年代 南珍との熾烈なライバル関係を漏らすことができない。
それこそ ‘共生共存(共存共栄)’だったが本当にすごい時代だった。南珍は全羅道出身で色白で可愛らしく都会的に生じたし, 私は慶尚道田舍者で真っ黒いので牛泥棒のように見えたから完全に対照的なことだ。
当時の金大中, 金泳三など地域を代表する二人の政治家の対決構図に便乗した側面もある。

-二人の競争は誰の勝利で終わったのか?
そうですねぇ, 各自の道に行ったから勝敗を見定める事はできない。
南珍は大きくても小さくても多くの舞台に立って自分の才能を発散するスタイルで, 私はお腹がすいていてラーメンを食べるだけであっても私の立つべき席でなければ出ないといった式だった。

-”南珍がさせた”と、しどろもどろに言いながら一観客が舞台に飛び上がって来てサイダー瓶を振り回した為、顔を70針も縫った事件もあった。
多分,木浦公演だったようだ。UDT(海軍特殊部隊/Underwater Demolition Team)出身だと言っているが, とにかくもう少しで死ぬ所だった。
私が腕力があるからこの程度で済んだが、首を狙ってきたから他の歌手だったら生き残りにくかったと思う。
その時 舞台で 10分余りの間争ったが, 観客達はいたずらであると思ったようだ。そうして血が零れ落ちるのを見て警察が出動した。

そして, 満面に笑いを含んだ羅勲児が自分の左側頬を指で示した。
まだ太い傷痕が仙縁するように顔の一方を横切っていた。
彼は “その件以外に、芸能人周辺でぶらつくヤクザ達と争った事が何回かある。それで 7回ほど警察署に入って訓戒された”と言った 。
“ショーをする度にメーキャップ室に尋ねて来て女舞踊家達の胸をやたらと触るヤクザ達のやり方に堪える事ができなかった”と言った。

-あなたは生まれつきの音師のようだ。歌手としての人生に満足するか?
生まれ変われば歌はやらない。私の姿はもしかしたら南大門市場でタオル一つ首に巻いて叫びながら商売することだ。終われば夕方に焼酎一杯飲んで昔の歌を歌って….ところがこんなに一生歌いながら暮しているからいつも不満だ。それでも歌手または芸能人として自らが酔っていないから, いつも自分を客観的に評価して反省することができるというのが私の長所だ”

-特有の折って拗る唱法はどんなにして出たのか?
幼い時から、お婆さんに付きまとって民謡公演を見た影響だ。
チェヒジュン, 南イルへなど先輩たちは歌をきれいにあっさり歌ったが, 私は民謡に土台を置いた唱法で音をあんなこんなに折って(こぶしを効かせて)歌った。
以後後輩たちは私の唱法を教科書のように真似ている。歌謡史に残る仕事だと思う。

羅勲児は ‘トロット’という表現に極度の拒絶反応を見せた。
“英語で書けば ‘trot’である ‘トロット’は 4分の 2拍子のリズムを現わすだけの言葉だ。その上、私たちの情緒と恨を盛った伝統歌謡を称える名称がどうして外国語で無ければならないのだ?”と。
‘トロット’ の代わりに ‘アリラン’と呼ぼうと提案した。
彼は何ヶ月か前に各放送社音楽プロ関連プロデューサーにこんな考えを盛った文件を一斉に送ったこともある。
(おおきに注釈:文件内容はこちら

-自分で作詞, 作曲もするあなたの音楽活動は終りがない。
私の自慢を一つしよう。これほど長い歳月、歌って絶えず新しいヒット曲を出す歌手が他にいるか? それに私は 80年代以後放送の力にもそっぽを向いたまま, ライブにだけ専念した。マイケルジャクソンを見ても、ずっと前のヒット曲を又やって ふんだくっていないか? 私はアングラアリラン歌手だ。今度出た ‘友’ アルバムは有名作曲家 14人が私のために曲を作って使られた記念碑的アルバムだ。100年くらい経つと珍しいアルバムになるだろう。

-体力管理はどのようにするか? 20〜30歳代に劣らない筋肉質の体つきを維持している
運動しなければ 2時間も公演できない。早く歩く運動をする。大衆の前に立つスターがお腹がヌッと出ていたらどうする? タバコもやめてから 5年が過ぎた。使命感でやった事だ。

羅勲児は私生活に対しては一切言及を避けた。1985年、 14歳年下の後輩歌手の丁水卿さんと結婚, 1男1女をもうけている。1970年代当時の大女優である金芝美さんとの熱愛説は中年ファンにはまだ記憶に明らかな ‘事件’だ。“以前、金芝美さんと…” と 話を切り出すと “あぁアレになったから”と言って軽く笑って済ます。

インタビューを終えた後, 彼は ‘羅勲児のアリス’ 公演録画テープを見て製作陣と共に編集作業をしている。巨大な城のセットをくぐり, 馬に乗って登場する自分の姿を見守る彼の口元に微笑がよぎる。
(日本語訳:byおおきに)

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