[ウィークリー朝鮮] 2008年9月16日(火)午前9:55

◆羅勲児‘故郷の駅’秘話◆

【第二話】

 1942年全羅北道淳昌で 8兄と妹の末っ子に生まれた林氏はそこでナムソン中・高を卒業した。彼は学生時代から歌を ‘ホボルナ(おおきに注:和訳出来ず)’に上手く歌った。

 1963年12月,首都陸軍病院に服務中だった二等兵の彼は市民会館(現・世宗文化会館)で開かれた文化放送主催 ‘トップシンガー大会 年末決選’ に軍服を着たまま出場した。審査委員の一人が作曲家の黄文平(ファン・ムンピョン)氏だった。
林鍾寿(イム・ジョーンス)は玄仁の‘夢よもう一度’を歌ったものの入賞することはできなかった。彼は暫くして黄文平(ファン・ムンピョン)氏を尋ねる。
“中学校に通っている時から歌手になるという夢を持っていました。故郷の淳昌にいらっしゃるお母さんが末っ子が歌手になって成功する姿を見たいと朝夕に清水をお供えして祈っています。黄先生,是非歌手になるように指導してください。”
黄文平は彼を憶えていたので、その場で名刺二枚を取り出して裏に簡単なメモをする。
名刺の一枚は作曲家ケ・スナム音楽学院長に,他の一枚は首都陸軍医院長にそれぞれ伝えるメモが書かれていた。首都陸軍医院長宛のメモには ‘林鍾寿二等兵が勤務後歌を学ぶことができるように気配りしてほしい’と言う内容だった。

 彼は崇仁洞東大門アイスリンクの隣にあったケ・スナム音楽学院を訪ねた。ケ・スナムは彼の歌を聞いて見て“軍人が何程のお金が有るのか。奨学生となって来て音楽の勉強をしなさい”と言った。
あの時、1965年11月。ソウルに居所がなかった彼はケ・スナム音楽学院に宿泊先を決めた。夜になれば鉄製の机二つを並べで付けておいてその上で眠ったし、ご飯は学院屋上で石油風炉で煮炊きして食べた。林鍾寿は歌手にデビューする為に芸名も作った。林時元(イム・シウォン)。
新人歌手林時元は南サンキュ,オギテックなどと一緒に市民会館舞台に立ったりした。

 1967年彼は遂に作曲家 羅・花郎(ナ・ハラン)先生から歌を受けて吹入する。‘湖畔の燈’だった。夢のような歌手デビューだった。 一週間の間、彼は自分の歌を数十回も繰り返して聞いた。そして重大な決心をすることになる。 “あの時までは分からなかったが私の歌を吹入して聞いてみたら音色に個性がないという事実を悟るようになりました。また当時はポップソングが一度にどっと入って来る時だったので私の唱法が時代の流れに当たらなかったです。お金もないからこの底で堪える方法もなかったし、また私の顔が テレビ写りが悪いと思うようになったのです。それで歌手を自らあきらめました。”
彼は羅・花郎先生を尋ねて‘歌手をやめる’と言うと先生は彼に “本当に賢明な判断をした”また、“歌が上手なことにすればお前は歌手になるのに十分である”と言った。そして羅・花郎先生は彼が全然思いもよらない提案をした。
“お前今日から作曲をしなさい。お前が思っているメロディーを楽譜に書くことができるのか?” 彼がうなずくと,羅・花郎先生は“1週間後に歌を書いて持って来て見なさい”と言った。
作曲法を学んでみた事がなかった彼は一人で頭を絞って曲を書いた。
‘帰ってあげる’という題目だった。羅・花郎先生は‘帰ってあげる’をピアノで弾いて見てから林鍾寿に言った。 “初めて作曲してみた人が、普通、こんな曲を書くことは到底できない。お前は必ず作曲で成功する。”

 林鍾寿は歌手になりたいが為に上京したのに歌手の夢をあきらめて作曲家へと進路を変える結果になる。(日本語訳:byおおきに2008.9.20)

【第三話】へ続く
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