林鍾寿(イム・ジョーンス)は相変らず無名作曲家のまま歳月が経った。
そうした1971年12月末、彼はオアシスレコード社に立ち寄ったら偶然にも羅勲児に会った。羅勲児が思いがけない提案をした。
“林先生,‘車窓に幼い姿’があまりにも残念です。どうせ放送もされないから悲しい歌詞をやめて健全な歌詞に直してください。リズムもトロットからゴーゴーリズムに変えてはどうでしょう?ゴーゴーに変えたら身軽く聞こえるのではないでしょうかね”
林鍾寿は曲名,歌詞,リズムを変える問題を夢にも思わなかった。彼は家に帰って‘健全な内容’について何日も悩んだ。
そして突然、中学校2年生の時の黄登駅から裡里駅まで通学した事を思い出した。
“益山郡三箕面の兄さん宅から山道を越えて黄登駅に行き、通学列車に乗ったりしました。朝御飯を食べて二十里(日本の二里か?)山道を越えて列車時間にあわせて行くのが苦痛の連続でした。走るようにしてやっと列車に乗り、渡り板に腰かけて裡里駅に到着するまで一息ついたりしました。あの時の線路際に咲いたコスモスを見ながら故郷のお母さんを思い出していくら泣いたか分からないです。一応主題を ‘故郷駅’にすると歌詞はすらすら解けて行ったのです。”
1972年2月8日、羅勲児は‘故郷駅’を吹き込んだが今度も‘故郷駅’はタイトル曲ではなかった。
‘故郷駅’は再び注目されない、幸運の女神は最後まで林鍾寿に手招きをしないかと思った瞬間に思いもよらない事件が発生する。
羅勲児が電撃的に地球レコード社へ専属社を移してしまったのだ。地球レコード社は羅勲児の‘錆びたレール’を出した。
危機感を感じたオアシスレコード側は勢いをつける為に妙手を絞り出した。全国の放送局プロデュ−サーに緊急アンケートを回した。
『羅勲児のアルバムの中でタイトル曲を除いた知られない曲の中で ‘ベスト10’を選んでくれ』と云う内容だった。ベスト10中1位が ‘故郷駅’だった。
オアシスレコード社は ‘故郷駅’をタイトル曲でまたアルバムを出したし 9月になると全国は ‘故郷の駅’でいっぱいになった。産業化で都市への人口移動が深くなっていた状況で故郷を発った人々の心を搖るがしたのだ。
‘林鍾寿時代’もコスモスと共にパーッと咲いた。
1972年以後コスモス咲く季節が来ると全国で ‘故郷の駅’が流れ出る。
(日本語訳:byおおきに2008.9.29)