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고향역(故郷の駅)

 作詞:林鍾壽 / 作曲:林鍾壽

≪市販DVDバージョン≫

너와 나의 고향」 から、本曲「고향역」までの5曲、間の3曲にはゲスト奏者を迎えたが、残りの2曲では、羅勲児、男女バックヴォーカル陣、そして、MBC楽団、いわば本体のみでの、力の見せ所だ。
特に、本曲にかける意気込みは、DVDを通しても伝わってくるほどだ。

(カメラワークについて)
スタートから、カメラワークが冴えに冴えている。
舞台後方から、楽団を含む出演者の動きを丹念にとらえている。
最後方に並んでいた男女ヴォーカル陣が、ゆっくりと、最前列に歩いていき、それに合わせて、指揮者の気合あふれる、動作と掛け声、管楽器陣や弦楽器陣の演奏に対する集中具合、照明が前後左右に揺れる中、観客席での、すでにエキサイトしたファンの様子、などなど、余すところなく、効果的に捉えている。

曲中、最後に近い部分での、ひとりの上品な中年女性ファンの捉え方は、特筆ものだ。
この席の周辺は暗くて、よくぞ、この表情に気づき、カメラに収められたな、と感心する。
オペラグラスを片手に持っているので、舞台からかなり遠いのだろう。回りもやけに静かだ。でも、舞台上での素晴らしい演奏に、興奮して輝いている表情は、多くの事を語ってくれている。
視線が左右に動いているのは、思わず舞台のあちこちに眼がいくからだろう。それほど、感心して、興味深く観られるところが満載、ということだ。
この女性の気持ちは、テレビ画面を通して観ていても、十分に伝わってくる。ライブにあたかも参加しているような気持ちになれる。自分も同じ気持ちだな、と、語り合っているような気分にもなる。
意見が合う、ファンとして、これほど、嬉しいことはない。
このライブでの、2例目の、観客の表情を担当するカメラマン、の勝利と称えたい。

(演奏について)
編曲面では、以前のコンサートと比べての大きな違いはない。ただ、より劇的な演奏になっているのは確かだ。
顕著なのは、弦楽器(バイオリンやチェロ)の使い方だ。あたかもクラシック音楽を演奏している交響楽団のように、前面に出ている。特にエンディング部分での終わり方は、クラシック演奏の終結法を、採用しているようで、ドラマチックのひとことだ。迫力満点である。
この部分は羅勲児も、指揮者のように振舞っている。
また、トランペット陣の中間の演奏も、いつも以上の迫力を感じさせる。これで興奮せずにいつ興奮するのか、といったところだ。
バック演奏の醍醐味は、歌手が歌っていない空白の部分を、いかに上手く、埋めていくところにもあるが、この曲では、すべての部分で、管弦楽器陣を中心にして、効果的になされている。まったく隙のない3分間の演奏で、感嘆して、唸るしかない。

(歌唱について)
イントロ時には、管楽器陣を鼓舞するような、羅勲児の、2度の「ホー」という掛け声が、曲の始まりにおける盛り上がりに一役も二役も買っている。掛け声に答えるかのように管楽器陣も呼応している。
羅勲児は終始、気持ちよさそうに、歌っている。それは、そうだろう。これほど乗りのよいバック演奏をされると、否応にも乗ってくる。曲そのものの、編曲、構成もしているのなら、なおさらだ。
男女バックヴォーカル陣も、ここでは、広い舞台の端から端まで、文字通り前面、最前列に並び、地味だが、効果的に、曲に絡んでハモッている。女性ヴォーカル陣の歌声が目立つが、男性ヴォーカル陣の一人の、超低音の声もわずかだが、集音マイクから、聴くことができる。全員一体の姿勢がいい。舞台上で参加していない人はひとりもいない。

(5枚の大垂れ幕について)
너와 나의 고향」から、曲が始まるたびに、舞台上に若かりし頃の、羅勲児の巻物状の大写真垂れ幕が、1枚ずつ広がり、時折、風になびいたりしている。左右の端から交互にかつ順番にセットされていく。
観ていると、とにかく、若い!
何十年前の、往年の姿を、ここで振り返ろう、という意図なのだろうか、単に、余興のひとつなのか、定かではないが、ひとつ言えるのは、一種のカウントダウンになっていることだ。
5枚目が広げられた、本曲「고향역」で、最後だ、ということが、見ていて分かる。
演出の意図があるとすればこれぐらいしか考えられない。まあ、深い意味はないのだろうけど、本曲のエンディングで、舞台左右の火花とともに、舞台上に落下させているのを見ていると、若さを落とす、のだから、「もう若くはないのだ」とか「こんなに若かったのか」とか「懐古コーナー終わり」とか、何か意味があるのかどうかを、いろいろ想像してしまう。
単なる、後片付けが楽になる、ということだけ、かも知れないが。

何度も何度も、繰り返し繰り返し、観ても、まったく飽きない。そして、常に、新たな発見が、この「나훈아 의 아리수」コンサートにはあるようだ。

(曲そのものについて)
「故郷の駅と、その近辺に咲くコスモス」の描写から始まる本曲の歌詞は、本当によくできている。情景を心に浮かべやすく、想像しやすいのだ。
歌の出だしが、いきなり「コスモス」なので、そうかもしれないが、山々の中に、ポツン、とある、無人の駅を連想させる。
花々が、帰郷を歓迎してくれているのだろう。
2番の歌詞には、わが子を思う、白髪の母親の描写もあり、これまた、容易に、情景を思い浮かべられる。
より深く曲の中に入っていけるので、より感情移入が生じて、より感動することになる。おおきに氏が管理人の当ファンサイトに詳細に書かれているが、
最初に、この曲が発表された時は、まったく別の詩で、思想的に問題があるということで、当局の検閲に引っかかり、放送禁止になってしまう。そこで、改めて作詞しなおして、新たに誕生したのが、本歌詞、だそうだ。
人生ドラマあり、というが、紆余曲折はあるものだ。本曲の、山あり谷ありの、劇的な曲調に、これ以上はないぐらいにマッチしている。
この曲にまつわるエピソードは他にもある。
この曲を羅勲児に歌ってもらおうと、作者自ら、売込みをしたようだ。このことも、当ファンサイトに詳細が載っている。一読すれば、羅勲児の代表曲のひとつである、この名曲をより楽しめること、請け合いだ。
(おおきに注:「故郷の駅」誕生秘話はこちらです)

(本曲終了直後について)
DVDでは、羅勲児が、大きく息をはずませながら、マイクを持ったまま、なんとか上着を脱ぎ、その上着でもって、流れる額の汗をぬぐい、上着を投げ捨て、観客の向かって、独特の笑みを浮かべて、「カジャ!」と、次曲が始まっていくが、実際は、「ヨロブン」といった後、「アンマリ タッカモウスナ」と言っているようだ。
興奮のあまり、「オッパ!」と叫んでいる観客達に対して言っているようだが、何か、編集(カット)しなければならないような意味なのだろうか?少し気になるところだ。
本曲終了直後の観客席の様子は、ある意味、異様な雰囲気で溢れている。
いたるところから、自然にわきあがったであろう感嘆の声が、かぶさり、うなり声のように聴こえてくる。めったに観られない、聴けないものを観ることができた、ということへの表現なのだろう。
고향으로 가는 배」に続き、本コンサートにおける、完全にノックアウトさせられた曲、その2である。

(参考直訳)
・・・・・
コスモスの花が咲いている 慣れ親しんだ故郷の駅
花々はひとえにもふたえにも連なり その姿はあたかも 懐かしがって 歓迎してくれるかのようだ
駆けてくれ 故郷に向かう列車よ 期待と不安でときめく胸を乗せながら
雪がからまり 浮かび上がったように見える 恋しく懐かしい わたしの故郷の駅
コスモスの花が歓迎してくれる 慣れ親しんだ故郷の駅
花々は情が細やかで あたかも力を合わせて 峠を越させようとするとき
白髪をなびかせながら 駆けてくるお母さんを 両腕を広げて 抱き締められたら いいのになあ
遠くて久しい わたしの故郷の駅
・・・・・
(2015年12月16日 美辞麗句)

≪テレビバージョン≫
哀愁の汽車の音から始まる、羅勲児18番の曲。
男女バックコーラス陣が最前列に移動。
迫力のブラス陣の演奏によるイントロ。
出演者全員の意気込みが否応にも伝わってくる。
羅勲児は今度は舞台右端で歌い始める。右側の観客に対するサービスか。
楽団のすべてのサウンドの躍動感が素晴らしい。
ひとつの宇宙がここにある。この上ない至上の3分間。
演奏者と観客が文字通りひとつになっている。
中間の、立ち上がって演奏するトランペット陣も一段上の興奮に誘う。
羅勲児が中央に移動。
歌の途中で羅勲児の表情が一瞬くずれる。最初は疲れがでたのかと思ったが、ひょっとすると、観客のあまりの熱狂ぶりを見て、ほっとしたのではないか。
そして、あっという間にエンディングの場面。
ボーカル陣が羅勲児の側に。照明が落ち、左右の柱からいつもの火花が降り注ぐ。
5枚のすべての大垂れ幕が落下する。
感極まった観客からのアンコールの叫び声。これ以上のパフォーマンスがあるだろうか。
観客の興奮・熱狂が容易には収まりそうにない。

(2015年9月26日:美辞麗句)
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