以下の雑誌記事は1988年3月、羅勲児後援会会長・野沢あぐむ氏が直接羅勲児さんにインタビューして、執筆されました。
【羅勲児後援会機関紙<我羅通信>増刊号、好っきゃねん!!羅勲児】(1996年発行)にも掲載されています。
尚、羅勲児後援会は羅勲児さんの日本公演が途切れて以来、現在まで休息状態です。(おおきに)

「ミュージック・マガジン1988年5月号」より

第一話(原点回帰を果たした羅勲児の決意) Photo1(頁82、提供=110番舎企画)

3年半前、羅勲児が大阪フェスティバルホール「LIVE IN JAPAN」で日本デビューを飾った時、羅勲児の筋肉質でありながら艶のある歌声、そう、背筋にビンビンくるセクシーな肉声、そして艶歌とトロットという同じジャンルの歌をモチーフにしながら、1曲1曲、ステージと客席との間で展開される交歓に凄い臨場感を感じた。<なんで泣く>があった。<カジマオー>があった。
だが、それ以上に驚いたことは、「今の韓国艶歌はここまできているのか、韓国の現代音楽はこうなのか」という、見くびっていた腕白坊主が、実は凄い力量の持ち主であったことへの覚醒であり、それが焦燥感へと繋がっていくことに、ほとんど時間は要らなかった。戦後40年近く経過していながら、旧態依然であった日韓の音楽関係を、1日にして現代に引き摺り上げた男、それが羅勲児であると、俺は拍手喝采を送ったのである。
その羅勲児が「日本の歌で勝負する」心意気に、否があるはずがない。期待した、熱望をした、外国人である羅勲児に、為体(ていたらく)・日本艶歌の救世主の姿を俺は見た。
「外国人?それは違うでしょ。俺、日本で、日本の歌、歌う時、日本人よ、日本人以上の日本人よ。分る?」
そうでなきゃ、日本で艶歌なんか歌えないよ、というメッセージを突きつけた羅勲児の前で、テイチクをはじめ、日本側スタッフがしたことは、彼から日本の歌心(たましい)を引っ張り出すことではなく、「新人歌手羅勲児デース、よろしくお願いしまーす」と、日本の芸能界の、倫理というにもおこがましい体臭の中への釘付けと、曲作りにおいては、羅勲児独特の持ち味や、日韓融合への熱い思いを全く無視した、現代日本艶歌への拝跪だけだったのである。確かに金はかけたであろう。しかし、それが的を射ず、何より、羅勲児の思いと魅力の根源を衝いたものでない限り、どれほどの意味も、もちはしまい。もし、俺の理解の仕方に、誤りや、誤解があるのなら、指摘してほしい。一レコード企業と一外国人歌手の契約切れだけでは済まない、日韓の、日韓艶歌の、現在的問題があったはずであるからだ。これに、きちんとケリをつけない限り、日本人の立場から、羅勲児爆発も、日韓の庶民レベルでの交流も、始まりはしない、と俺は思うから、である。
羅勲児が(1988年)3月6日、3年半前と同じ大阪フェスティバルホールで、「心の歌コンサート・大阪/オモニ(母)の海峡」を開いたことは、本紙前号(おおきに注:ミュージックマガジン1988年4月号)に書かせてもらった。昼夜2回、補助席も出るほどの盛況ぶり。
 俺はこのコンサートを、羅勲児の原点回帰と位置づけた。テイチク3年間を完全に拒絶したもず昌平の構成にも、それは端的であった。と同時に、繰り返しになるけれども、日帝支配36年間の歴史を上回る、戦後43年の時間の経過をもちながら、なおはかばかしくない、日韓の庶民レベル、特に音楽ジャンルでの相互理解、相互交流に羅勲児自身の告発と、その一翼を自ら担う並々ならぬ決意を見てとったのは俺ばかりではあるまい。
第二話 (キムチ味こそが本来の姿)へ

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