以下の雑誌記事は1988年3月、羅勲児後援会会長・野沢あぐむ氏が直接羅勲児さんにインタビューして、執筆されました。
【羅勲児後援会機関紙<我羅通信>増刊号、好っきゃねん!!羅勲児】(1996年発行)にも掲載されています。
尚、羅勲児後援会は羅勲児さんの日本公演が途切れて以来、現在まで休息状態です。(おおきに)

「ミュージック・マガジン1988年5月号」より

第二話(キムチ味こそが本来の姿) Photo2(頁86)

羅勲児は言う。
「(日韓関係の)昔の事を今、皆さん、日本人みんなが責任持たないとダメよとか、それはちょっとおかしいと私は思うのよ。
ただ、自分の考えの中に、頭の中に、昔はこんなこと有ったよ、と。今からは仲良く、昔のこと忘れて、もっと仲良くしようよ、という気持ち持ってたら、それが一番いいのよ。(時代を)返すことができねェもん、ね。
責任はわれわれにもありますよ。逆に言うと。侵略されるふうに甘く見えた事がわれわれの責任だと、私は思うわけよ。まだ韓国でも、その時代のいじめされて、お父さんが死んだとか、お母さんが死んだとか、ムチャクチャに殺されたとか、それを経験した人が生きているわけ。そういう人には、話にならないよ。逆に考えてみ、自分のお父さんお母さんがそうなった場合は、それ忘れないでしょ。
だけども、そればかり考えたらどうなるかと。だから今は、それの責任をとって下さいという話じゃなくて、昔の時代と違いますよ、現代はそうじゃないと。要するに侵略しても、今はダメですよ。韓国は勝ってるよ、その方では、強いんだから。逆にいうとね。
だから、今は仲良くしようと、これも一つの文化協力だと思うんだけど。一般庶民の心の中から、一つひとつ発展して、仲良くしないと、上ばかりでさ、カッコつけてもさ、感じてこないもん。
日本の人が韓国へ行ってお友だち作るとか、韓国の人が日本に来て、日本のお友だち作る、それが広がってくると、お互いにね、政治も何も関係なしに、いいことになるわけや、段々、段々ね。時間かかってもいいよ、と。昔のそれが凄く強すぎて、簡単に『忘れるよ』ということはできない。
だけども、、もっとゆっくりね、小さい事から、一つひとつ広がってね、よくなっていくでしょ。私のショウ見て、日本人の方が『ああ、これがキムチ味か』、理解してもらったらいいのよ。今まで韓国のことあまり知らなかったり、好きじゃなかった人が、『羅勲児の歌聞いて韓国が好きになったよ。そんな近い国とは知らなかった』と。俺もファン・レターもらったから。韓国がそんな近い国と知りましたと、これいことやろ、凄くいいことやろ」。

関西弁と、「時代を返すことはできねェもん」と伝法な江戸弁とを交えながら、自らを明確に位置付ける羅勲児に、俺は、「そうだ、このキムチ味が羅勲児の本来なのだ」心の中で叫ばずにはいられない。
「(羅勲児の)歌聞いて韓国いろいろ興味があって、勉強したと、すごくいい国だと、とかね、そういう手紙がいっぱいくるわけ。それは政治家もできないの、分かる?
韓国の政治家が『韓国分かって下さい』とか、そう言っても誰も分かってくれるかと。そういう意味では、凄くいい。
『ああ、俺はね、あまり売れなかったけど、いいことをやったな』と思うわけ・・・」。

半ば自嘲気味に、しかし「どういっても日本で・・・。賭けております」と続けた一年半前のインタビュー。メッセージは変わらない、しかし、トーンには格段の違いがある。
<ソウルー東京>発売を前に一つの決算を迫られた状況と、その後の辛酸を経ながら、3・6大阪フェス(1988年3月6日大阪フェスティバルホール「オモニの海峡」コンサート)を大盛況の裡(うち)に終えて、自らの原点を固め直した3.11(3月11日)インタビューでは、当たり前のことだろう。
「コンサートが終わって一週間、でも疲れがとれないんですわ。腹で歌うやろ、だから腸と胃が疲れて、食べられないんですよ」。
羅勲児はこのステージで、「カラオケ上達法」を伝授した。「歌はノドで歌うんじゃない。腹から声を出す。それから、肩と腰を使って歌を表現する」。そして<大阪しぐれ>や<番外酒場>で自ら実証した。お客へのサービスを装ってはいても、それは自らの歌唱法、エンタテイナーとしてのポジションを明らかにしたことに、他ならない。
「俺が20年かけて、つかんだこと。本にも書いてないよ。だから内証、外で言ったらダメよ!」
笑わせながら、テメエの主張をお客の懐に仕舞い込ませてしまう、これがこの男の度量、人柄なんだよなア。
ーーーで、「オモニの海峡コンサート」、どうでした?
「ウン?・・・よかったですか?俺、ステージのことは、全然覚えてないのよ。いつもそうだけど・・・。開演一分前は、いつも最後のタバコ1本吸うわけ。『きょうは何で攻めてやろう。鉄砲でいこか、ニッポン刀でいこか、ミサイルにするか』、考える。言葉悪いけど、『どうやったらお客殺せるか』これ考えるのよ。そうよ、だって戦争でしょ、お客さんとの戦争やろ。俺が負けたら、お客さん、もう二度と来ないよ。『なんだ』ってね。考えてみ、3千円、5千円払ってさ、2時間半狭い席で我慢して、『なんだ』となったら行かないよ。お客さんが『俺、負けたァ』と思ったら、また来てくれるやろ」
そうだ、その通りだ。その歌声、その主張、そして何よりその人柄に参ってしまったから、俺はお前に全面降伏したんだ。羅勲児、分かるか?俺だってこのままじゃ終わらせやしない。羅勲児の魅力、実力、日本にもっともっと浸透できたら、我羅倶楽部(羅勲児後援会アラクラブのこと)の組織化にメドがついたら、羅勲児という男の評価が日本で正当に語られるようになったら、俺は手をひかせてもらう、おこがましい言い方は十分に承知して。
羅勲児が一発、日本で売れたら、俺の耳が、感性が正しかったことが証明されるだろ。羅勲児のヒットに便乗(の)ろうとしたんじゃない、羅勲児に日本艶歌蘇生の最後の望みを託しただけなんだ。
「コンサート、凄かったよ、ホント」と俺。
「俺って、自分いじめるのよ。いろいろとストレスもあるよ。酒メチャクチャ呑んでさ、酔ってみたいこともあるよ。それを我慢して、全部、ステージで出すわけ。酒ボーンと呑んで、やってたら、庶民の心なんか分からないよ。いくら有名になっても、庶民の心忘れたら、誰も歌聞いてくれないから。お客さん、馬鹿じゃないよ」

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