1970年代韓国アルバム市場を掌握していた会社はオアシスレコード社と地球レコード社。
当時最高の人気歌手羅勲児はオアシスレコード社専属だった。オアシスレコード社はソウル清渓川 8街,平和市場の向こう側の建物 3階にあった。
1970年1月のある朝,オアシスレコード社にみなりが見窄らしい若い男が尋ねて来た。受付嬢は手でボールペンを回しながら、この男が入って来るのをジロジロ見て、こう言った。
"どんな用件でいらっしゃいますか?"
男は受付嬢の態度に大変不快だったが堪えて 'どうして来たのか'を詳しく説明した。
男は自分を作曲家と紹介して、「社長様にお会いするようにしてくれ」と言う。
しかし受付嬢は "社長がいらっしゃらない"と断る。
翌日から男は毎日全く同じ時間にオアシスレコード社に出勤するみたいにやって来る。
男は無名の作詞作曲家、林鍾寿(当時 28歳)。だった。
当時、林鍾寿は曲想が浮び上がる度に曲を書いた。しかし成功の門はめったに開かれなかった。
彼は1970年の初め 、'車窓に幼い姿'というタイトルの68番目の曲を書いた。
歌詞は、ソウルに上京して来て非常に苦労をする自分の哀れっぽい生きざまを当て付けられた。
♪♪‘流れてとどまる不慣れな他郷に/ ただ一度情を与えたその人を一人きり置いて/ 一人で乗った列車はさびしくて/目を閉じても浮び上がる車窓に幼い姿…’♪♪
無名作曲家が名前を揚げる道はただし一つ。有名歌手に曲を与えてヒットさせるのだ。当時男性人気歌手は南珍・羅勲児・朴イル南・南サンギュ・アンダソン・オギテック・崔喜準などだった。
林鍾寿はこれらの中で ‘羅勲児が歌えば一番よく似合うようだ’と思った。それで羅勲児が専属しているオアシスレコード社をがむしゃらに尋ねて来たのだ。
彼は 2週間ずっと同じ時間に事務室を尋ねて来て結局、孫・晋ソク社長に会う事に成功する。そして “羅勲児に与えたい曲が二つあるから羅勲児に会うようにしてくれ”と言う。しかし孫社長から帰って来た返事は “羅勲児がいつ来るのか私たちも分からない”と言う事だった。
彼は再び引き伸ばし作戦に入って行くしかない。彼はオアシスレコード社職員のように午前9時頃に‘出勤’して午後4時か5時まで事務室を見守った。そうすること2ヶ月余りのある日午前11時頃だった。事務室が急に騷騷しくなった。羅勲児の登場だ!
孫社長は社長室のドアを開いて出て “勲児、よく来たー”と言いながら嬉しく迎えた。
羅勲児は「ちょうど映画撮影を終わらせて帰る途中だ」と言った。
帽子からブーツまで全部皮製品を身に付け、濃いサングラスを使ったトップスターの姿だった。
林鍾寿は羅勲児を実物で見たのはあの時が初めてだった。彼は社長室に入った羅勲児が出て来るのを苛立たしく待った。
11時40分,羅勲児が社長室を出てレコード社の玄関門へ向かおうとする刹那、彼は胸が震えた。この機会を逃せば・・・。彼はぱっと立ち上がり、後から羅勲児の肩を掴んだ。
“なんだ?”
羅勲児の初反応だった。林鍾寿は準備した言葉を速射砲のように降り注いだ。
“私は無名作曲家林鍾寿といい,羅勲児様にお会いしようと 3ヶ月の間待ちました。羅勲児様に差し上げたい曲が有ります。少々でいいです。2節まで歌うと時間が長く掛かりますから二つの曲を 1節づつだけ歌います。それなら 5分あれば十分です。ぴったり 5分だけ時間を下さい。”
‘ぴったり 5分だけ’という言葉に羅勲児は心が搖れた。羅勲児は彼に付いてピアノがある部屋に入って行った。彼は “先にやります”と言ってからピアノを演奏して歌を始めた。
♪♪“流れてとどまる不慣れな他郷に~”♪♪
背後に立っていた羅勲児が前へ来て彼の顔をぱっと見た。
“林先生、私より歌上手ですね。もう一度やって下さい”
林鍾寿はまた 1節を歌った。すると羅勲児は “もう一度やって下さい”と言った。歌を三度聞いた羅勲児は “私が一度やってみますから”と言いながら歌った。
「三度聞いただけでどうしてあのように上手く歌うことができるのだろうか?」と林鍾寿は戦慄を感じた。
羅勲児はその場で楽譜にサインをした。‘吹込みする’という意味だった。もう一つの‘その人を捨てた罪で’という曲 は、やはり羅勲児の落点を受けた。
(日本語訳:byおおきに2008.9.23)