羅勲児コンサートin 釜山  あとがき

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10月30日の大阪ディナーショー、11月4日の神戸コンサートが済んで間が無い12月6日の韓国行きは羅勲児ファンである人でさえ、「狂気の沙汰」かもしれない。だから行けないかも、と思った。現地で落ち合った5人のそれぞれは、「仕事が・・」「健康が・・」「休暇が・・」「経済的に・・」「チケットが取れない」などと一般的乍ら、その障害を越えたから喜びは一層のものだった。

空港で荷物を受けた後、まず空港内の釜山銀行窓口へ向かった。今回の私は両替より先の用がある。二日間合計四回の公演の内、3回目のチケットを日本でチケットが取れなかった「ゆき君」に譲ることになっている。でも私は三回で諦める気はなく、釜山へ着いてからどんな席でもいいから手に入れる覚悟で来た。それでまず「主たる予売処(前売り券販売所)である釜山銀行」の金海空港店窓口でネットからコピーアウトした紙を差し出しながら「羅勲児コンサートのチケット有りますか?」と訊ねると「無い」とのこと。しつこくもコピーの「予売処」と「釜山銀行全支店」を指差すとその行員さんはコピーを持って奥へ入ったので「有るのかも!」と一瞬の期待を持ったが、「月曜日になったら銀行が開きます。今日と明日は休みなので・・」と出てきて言う。冗談じゃない!羅勲児コンサートは日曜日で終わりです!

銀行が土、日曜日が休みなのは承知の上だが空港店なら休んでいる筈が無いから「もしかしたら」の望みで一番の候補だったのに、やはり出張所的な店舗なのだろう。仕方ない。
両替をした。レートは去年より良くて1万円=106500ウォン。

次はガイドさんに頼んで予売処になっている街中の「本屋」で買って貰おうと思った。経緯を知った「ヨンちゃん」が自分のを回しても良いという。「えっ、ほんとに!」。ヨンちゃんは以前お世話になった韓国語の先生にお土産を持って来ていて連絡が取れたら会う積もりだそうだ。多分明日の昼頃になるだろうとのこと。3回目の公演に間に合うかどうかの頃になる。これでとにかく4回が確保出来そうだ。
初日KBSホールへ行くと、当日券があるらしい事も判ったのでヨンちゃんは、もし3回目に間に合って来れたら当日券で入る気でいたが、結果、先生ご夫婦とゆっくりドライブ、食事、歓談をして四回目には間に合うようにKBSホールへ来た。チケットが無駄にならないから久し振りの出会いを心おき無く過ごす事が出来ただろうから、ヨンちゃんと私、双方にとって良かったのではあるかいか?

 釜山の金海国際空港は2年程前に来た時より広くなっていた。広くといっても仁川国際空港とは比較にならないが、随分明るく綺麗に変わっていて気持ちよい。2002年のW杯かSARS騒ぎの頃とか聞くが・・(羅勲児さん流なら、ま、ええわ)。
W杯一ヶ月半前に起きた中国国際航空機墜落事故の報道記事によると滑走路の短かさや山が空港近くに迫る地形などから、航空会社の機長が「悪条件下で、絶対に着陸したくない」と口をそろえる空港だそうだけれど、私は金海空港が好き。理由は、『わかるやろ』(羅勲児さんの口癖)。

釜山といえど韓国は日本より寒かろうと少し厚着をして来たが昼の釜山は結構暖かくて着替えなければならなかった。ところがコンサートの後、夕食をしてホテルに戻ったのが夜中のせいもあり、ホテル玄関先の瞬間の外気なのに肌を刺す風だ。羅勲児さんが日本の舞台で言った「三面は海でも一面は大陸に接している」為の大陸的気候で昼夜の温度差が大きいということだろう。

さて、羅勲児さんの故郷釜山のコンサートは予想通り舞台客席一体の湧きで羅勲児さんの上機嫌ぶりは今までに見たことも無い。悔しいかな、韓国語がわからないから観客がどっと沸く時も「なぜ」なのかわからない。少々韓国語がわかるヨンちゃんもわかりにくいという。多分釜山訛りを存分に発していたのではないだろうか?

韓国旅行でいつも感じる「親切」。釜山コンサートでは一層顕著だった。時に手拍子を止めて聞き入っていると隣の席の婦人は私の手を持って手拍子をするようにと世話をやいてくれるのは韓国ならでは。私達がほんのちょっとしたお土産を用意しているのを知った回りのアジュマ(釜山ではアジメですかね)達はいつ行けばいいかタイミングを教えてあげると言い、羅勲児さんが気をよくする、喜ぶと言ってくれる。一回目(初日の昼の部)の終わり頃、日本から握手の種にお土産を持って来ていた二人が舞台前に出て行くと、羅勲児さんは歌が終わって舞台中央で話し始めていたが、「おっ、」と言うように気が付いて舞台先端まで握手に来て下さった。お土産の用意が無かったヨンちゃんも私達に続いて握手に行こうとしたらスタッフに止められたが近くの観客達が「日本から来た人達だから」とスタッフに言って舞台前まで行かせてくれたそうだ。握手の後、(勿論)韓国語で「日本から来た人達だ」と観客に向かって言われたらしい。ランちゃんの隣の席のご老人は日本語が判るのでランちゃんにそう説明してくれたそうだ。うれしいね。
4回とも周りの人達は好意的だった。おそらく続けて見に来ている人は無さそうだから、私達は、さっきも見た、明日も見るなどとは決して言えない。

昼の部が終わった後、出口で今からどうしようかと相談した。KBSホールの門前で焼栗や銀杏、焼きイカ等を売っていたが出口から見える範囲に喫茶店のような店が無さそうだった。しかし夜の部まで一時間余りしかないし、吹き込んでくる風の冷たさにすくんで、外に出る気になれない。公演が終われば全員一度外に出なければならない事は百も承知ながら、出口に立つスタッフに「中に居らせて欲しい」と頼み込む。一番韓国語がわかるヨンちゃんは寒い街を散策に出かけてしまった。日本語のわからないスタッフと韓国語の話せない私達。夜の部のチケット(ほぼ実物大)を見せたりしてやっと親切なスタッフのお陰で「特別」に会場内に居らせて貰ったので、中の売店で買った小さなジャガイモやホットドッグのような物で軽食をとり、夜の部まで待つ事が出来た。昼の部、夜の部の間は2時間ある筈だが始まりが30分遅れ、20分延長となれば、すぐに後の部の人がどっと入って来るので「特別」の期間は極僅かで、すぐ普通の夜の部の観客となる。

第二日目は四人が花束を買ったので、昼の部で二人、夜の部で二人が渡す事に決めた。快く受け取って貰えてよかった。羅勲児さんから「又来たの?」と言われたと言う人もいた。私は何も話せなかったし、話しかけて貰った覚えはないけれど、花束につけたメッセージには「来年も日本へ来てください。きっと」と書いておいた。読んで下さったかな?

最終回(四回目)には2階の右端席に韓国の羅勲児ホームページ「ナサモ(羅勲児を愛する人達の集まり)」会員達(50人位か?)がペンライトやプラカードを持って声援を送っていた。(公演終了直後、その辺りを撮った。フラッシュ無しの為、非常口灯と天井と人影がぼんやり)

新しいCD「大韓民国NAHOONA」を買い込もうと意気込んで来たがコンサート会場には一枚も無かった。後で思えば他のでも買っておけばよかったと後悔した。第二日目の公演前にデパートや「ミリオレ」など行ってみたが殆ど欲しい物は無いに等しかった。釜山なのに何で羅勲児のがこんなに少ないの?とぼやいた。帰りの空港内の書店で ビデオCD(勿論羅勲児よ)を見つけて買った。帰国後聞いてみると羅勲児は歌だけで画像は風景だった。又、18曲中の一曲のタイトルが「僕らの涙」となっていて、聞いた事が無い。どんなんかなあと思ったら「僕らの故郷」で単なるミスプリ。こういうことはよくある事でチケットの「羅勲児」の「児」が「亜」になっているから「すわっ、改名か!いつまでも子供じゃないからねぇ」と思ってCD販売員に聞くと単なる間違いであるらしかった。ちなみにチケットの」列「57」番の特列とは元々会場の固定椅子席の前から舞台までの間の空いた所に野外レストランで使うようなプラスチック製のチェアを並べてくくりつけて繋げてある席だ。座りごこちは良くないけれど、後ろより前の席の方がいいから文句は言うまい。

私にとって釜山コンサートは2003年最後の羅勲児ショーになるが、羅勲児さんはまだ年内に慶州のディナーショークリスマスディナーショー年送りディナーショー、とスケジュールが一杯。12月一ヶ月間を韓国で暮して羅勲児ショーの追っかけが出来たらなぁ、トトロハウスさんに頼めば安くて安心な宿がある。何とか家庭崩壊を招かずに実行できないものか?などと夢のような事を真剣に考えた今年の12月。実現はやはり無理だったけれど、釜山コンサートを存分に楽しんだので、夢を見ただけ得した気になった。韓国で出会った見知らぬ方々、ご一緒して下さった方、土産話を待っていて下さった方、言わずもながら羅勲児さん、皆様に感謝です。おおきにでした。

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