丁茶山・順天・晋州へ

第三日目(7月6日木曜日)

読み易い行間が選べます(IE4以降)

  ホテルの朝食は韓式でお粥、コムンタンなどたっぷり。「文化と食を訪ねる旅」だから、しっかり味あわないといけないのだが、もったいない事に食欲がない。8時出発。
 昨日は大邱から西南方向へ移動したが、今日は光州を折り返し地点として、まず南へ走り、康津郡の丁茶山(チャンダサン)遺跡へ。きびしい上り道だけれど、木が茂った蔭は涼しい風が吹く。遺跡へやっと登りつくと、いにしえの茶山草堂が思いっきり静かな佇まいで迎えてくれた。めったに訪れる人もないであろう庭の石や庵の板敷きの端に銘々が腰掛けて休息しながら姜 在彦先生の御話しを聞く。茶山の本名は「丁若庸(かねへんがつく)」(チャンヤギョン」で姜 在彦先生著「ソウル」に名が出ていた。「ソウル」が先生の著書の中で一番やさしそうなので読んでいるが、地名、人名、その他読み方からしてわからないものだらけ。行きつ戻りつしてなかなか読み終えられません。
 後、大口面の青磁資料博物館へとバスは走り、見学後、青磁を展示販売する建物の2階で昼食となった。5000ウオンで郷土料理の韓定食、雛鳥の丸々スープからキムチまで15種ばかりのお皿が並ぶ。あーーぁ。いつものように食欲があればなあ。
 バスは東方へ走り、順天倭城址へ。畑道の途中でバスをおりて、あぜ道を行き、草の道を少し登ればざっと見渡せる程度の台形地であった。その昔、壬辰倭乱の時、小西行長軍が立て篭もったお城の址。僅かに石垣が残り細い松がひょろひょろ生えているだけで訪れる人もない所だと思う。だからか、デート中とおぼしき二人が20人の団体の到着にビックリしたであろう、すぐいなくなった。
登り口から反対の方は南方か、順天港を見渡せる。今は埋め立てているようであった。
 バスが待つ所まで畑道を行く時、近くに住むハルモニが話し掛けて来た。どこへ行って来たのか、どこから来たのか等と訊ねているようだが、わからないので倭城址を指しながら「ワソンエットエカッタワッスムニダ」、離れて後ろに続く人の列を手で丸く描きながら「イルボネソワッスムニダ」と言ってみた。肯いていたからあれでよかったのかな?
後になって主人が言うに、「あのおばあさん、日本語でよかったんじゃないか?」そうですよね、無理して韓国語でなくても、きっと日本語で通じたと思います。
 夕刻になってバスは晋州名物の鰻の蒲焼き店が並ぶ南江添いを走る。バスは少し離れた所しか止められないので、夕食の店まで歩く。
一階は蒲焼きを焼いて売る屋台程度の場所だけで、すぐ側の階段を上がると座敷の食堂になっている。靴脱ぎ場の周りの土間ではホースからひいた水をたらいに溜め、山菜をもどしたり、洗ったりしている。セメントの所も木の部分も、とにかく古い。韓国の飲食店特有の古さは「これも文化」だろう。日本のように「老舗」感覚が無いから、店をきれいに改装する気がおきないのだと思う。飲食店業で小金を溜めたら早く他の職業に変わりたいそうだ。食べ物屋さんの地位が低いようです。
しかし、料理は結構なものでした。普段この店ではメニューにないそうだが、夕食時なので、ユッケ入りビビンパプを特注してあった。ステーキ皿にのってくる蒲焼きは分量も多く、キムチ他の添え物も沢山で、その上ビビンパプですから、今回も一箸ずつの味見程度しか食べられない。
 今日も一日の予定が終わると暗くなっていた。晋州東方ホテル泊。私はもうクタクタで明日の為に部屋で早く休みたいと思うだけなのに、70歳を越した姜 在彦先生は昼間からお酒を飲んで講釈し、山道も登られ、夜は「今から飲んで、いろいろお話しましょう。御部屋へ皆さんいらっしゃい」なので、タフさにびっくりしてしまう。私達はそんな余力は無く、部屋で寝てしまった。

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