江陵・五台山

第三日目(9月13日金曜日)

読み易い行間が選べます(IE4以降)

 ホテルの朝食は、ここ(束草ブルマリンホテル)も洋式だけで薄切り食パンの三角トースト2枚、フライドポテトなど質素なメニューは昨日と同じ。そして、食堂係りの人ののんびりさ、悪く言えば「のろさ」は、噂に聞く「江原道( カンウォンドウ)気質」そのものであった。どんなふうかと言うと朝食の席に着いても中々お料理が来ない。やっと、副菜が全部のった大皿一枚が来て、珈琲を待つが、待ちかねて、厨房傍のカウンターへ「珈琲下さい」と言いに行く。暫らくして、振り返ってカウンターを見ると、コーヒーをスプーンで計ってドリッパーへ入れている。珈琲が来て、ミルクを探すが砂糖しか無い!。隣のテーブルは、ポーションタイプの珈琲クリームを使っている。全部同じツアーの人ばかりだから、隣のテーブルから貰おうとしたが、品切れ。又又カウンターへ「珈琲ミルク(クリームという)」を貰いに行かなければならなくなった。その内に主人がトーストのおかわりが欲しいという。それも直ぐに来るわけ無い。今まで、どこのホテルでも、必要な物は揃っているし、無い物を頼む時も、直ぐ目が合って、来てくれたものだ。が、ここ江原道は違う。
 たとえ話として聞く「江原道のブラックジョーク」:山で父親と息子が一緒に仕事をしていた。上から石が転げ落ちてくる。息子は「お父さん、上から石が落ちてきました。危ないです」と言ったが、その時既に父親は石の下であったとさ。
 イライラとした朝食を済ませ、江陵名所観光に出発。
姜在彦先生のお言葉では「江陵と言えば、李栗谷(イユルゴク)」。朝鮮中期、李氏王朝時代の儒学者でその母「申師任堂(シンサイムダン)」は人格者であり、文学者であり、詩人であり、天才芸術家として韓国女性の鑑(かがみ)とあがめられている。苗字が「申」で「師」も「任」も「堂」も敬称だ。昔の女性は固有の名前が無かった。「任(ニム)」は羅勲児さんの歌う「オメェ(お前、ではない。釜山訛りの母さんのこと)」の二番の歌詞の始まりに「ニマー、ニマー、ウリニマー」と使われている。韓国語の「任」は「ニム」と読んだり、「イム」と読んだりする。羅勲児さんのヒット曲「ニムグリウォ」も「イムグリウォ」ともいう。「君恋し」あるいは「死ぬほど逢いたい」と訳されている。
私共は死んでから「御母堂の死を悼み・・・」なんて電報に「堂」を使ってもらうのが唯一の時だ。
母親が偉いと子供も偉い。(ああ、我が子供達よ、とき既に遅し。この母親の下に生まれた事を諦めておくれ!)
 その李栗谷先生の生家「烏竹軒(オジュクヒョン)」を見学する。庭に幹が烏のように黒い竹が生えていたので付いた名だそうだ。広い敷地内の一点に足の形があるところがある。その形に合わせて立って見た景色が韓国の五千ウォン紙幣の裏の模様だ。なるほど、比べてみると樹木は育っているが、建物は間違いなくこの場所だ。
 昼食は「五台山食堂」でビビンバ。五台山(オデサン)散策後の夕食は味もムードも満点の物となった。運良く、雨が上がった夕暮れ、「宮田(クージョン)ホテル」の海側に取り付けられたテラスイカ釣りらしい漁火を見ながらの、新鮮な刺身と、とても食べきれない海鮮鍋料理。少々寒かったが東海(トンヘ)に来た甲斐があった気がする。宿泊はここではなく、ニュー東海観光ホテル。

この旅の初めへ戻る 第四日目へ
羅勲児日本ファンサイトTOPへ 羅勲児日本ファンサイトTOPへ 【 韓国旅日記目次へ戻る 】