熊川倭城・釜山支城台

第四日目(7月17日土曜日)

読み易い行間が選べます(IE4以降)

 和洋韓バイキング式のホテル朝食後、バスで熊川倭城(ウンチョンワソン)に向かう。
のぼり口で、頂上まで上がる“健脚者”と“居残り組み”に別れる。私は又、先生方と共に居残り組み7人の中に入った。それでも途中小高くなった所までは7人皆で上がってみた。ベンチと遊具とトイレが有った。海のほうを見ても山の方を見ても先生方が指差される歴史、地理上のものはどれなのかサッパリ判らない。耳が(頭も)悪くて説明が途切れ途切れにしか聞き取れないから相当予習をしてこないとだめだ。
今日はひどい雨にこそならなかったが上まで登って下りてきた人達は汗でシャツの色が変わって、へとへとになっていた。それだけの値打ちがある展望と石垣だったようだ。
 汗を拭き、喉を潤ししているうちにバスは熊川浦到着。埋め立て工事中だが、先生は構わず海に突き出た砂利ばかりで作った土手へ上がって行かれる。30人近くがついて行くので工事現場の人が近寄って来たが先生が何やら話をされると心配顔ながら、その場を離れて行った。私は、砂利が崩れて海に転がり落ちたら大変な事になる、と気が気でなかった。先生はそんな事には無頓着で説明だけに気を注いでおられる。これまでにもバスが止められない場所でも説明に適した場所でバスを降りたり、少々の雨降りでも暑い太陽の下でもそんな事は構わないというふうであった。だから傘を差したり、木陰に移動したりして先生に失礼な事なんだけれど、と思って小さくなっていた時も有る。
 昼食は鎮海の町で「トルソッパプ」。石鍋で炊いた小豆ご飯という風。釜飯が運ばれてきたらすぐにご飯をお皿に移す。そしてご飯がまだこびりついた石釜にお湯を注ぎ、その香ばしさをスプーンで戴く。
 又、鎮海駅前に待っていたバスで、次は釜山子(支)城台へ。「子(支)城」と言うからには「親(本)城」が有ったが、今はもう釜山の町中に取り込まれてしまっているらしい。釜山子(支)城台の絶壁の下は海であったが今は町の中で市民憩いの公園だ。立体的な作りだから、道の側に有るベンチでおじさんおばさんが花札をしていたり、ジョギングする人もあり、大小いろいろなスペースが有って、広場は朝はエアロビクス、昼はゲートボール等に使われているようだ。
 これらの倭(日本)城は「文禄・慶長の役」の際に豊臣秀吉の命で作られたが、日本の「お城」の優雅、堂々といったイメージからは離れている。既に建物が無いからでもあるが、断片的に残った石垣を見ても繊細ではない。石垣にそりが有るから日本の石工が作ったには違いないだろうが。
 1980年代、羅勲児さんが日本上陸間も無い頃、姫路でコンサートがあった。その時のビデオを見ると、司会者が「姫路城をご覧になりましたか?」と質問した。何の事かわからないようなので「お城ですよ、お城」と又司会者。それでも未だ判らず「おしろ?」と羅勲児さんは言った。姫路で観光の時間が取れるわけでも無いから、姫路城見学は無理であっただろう。日本語が充分わからなかったからかもしれない。例え言葉がわかったとしてもこの時、司会者が白鷺城の優雅な所を見て欲しいと思った気持ちの中の「城」と、羅勲児さんが思い浮べる韓国の城とは非常なズレが有ると思う。韓国の石垣は真っ直ぐに積まれる。建物は私から見ると「宮」とか「寺」風だ。日本のお城の建物が特別過ぎるのか?
 この旅最後の夕食はカルビ
夕食後、希望者だけホテルロビーへ集まった。ホテルの前の道路を隔てては釜山鎮駅だが、ホテル裏手の商店街へと散策に出かけた。商店街はどちらかと言うと生活用品を扱う店が多いようで夜遅くまで若者で賑わうという町では無さそうだ。生鮮品を売る店は店じまいをしているから、日本にあるようなスタイルのスーパーマーケットに入った。街は余り大きく無い上、綺麗に碁盤の目になっているからホテルへ帰る道がわかりやすかった。 
釜山ニュー太陽観光ホテル泊。

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