韓国の本【不朽の芸人・羅勲児】本文Part1−10

羅勲児ショー興業の秘密

 羅勲児ショーはバラエティショーだ。色々な歌手が登場するのではない。ギャグマンやタレントが出て来てユーモアをぶちまけるのでも無い。羅勲児から始まって羅勲児で終わるけれど、ずっとバラエティだ。彼の公演を注意深く見た人ならわかる。歌一曲一曲を一つのミュージカルに作り上げる、と云うのは事実を言っている。
例えば“雑草”を歌う時も初め頃の1980年代は只平凡な雰囲気で歌ったが、2003年ノッポピエロやら舞台前面を燃やすような炎、華麗な舞踊家を登場させて、最近では赤い服を着た子供達と一緒に歌った。
最近の歌手のやり方で言えば歌一曲で毎年新しいミュージックビデオを撮る事、と同様の試みだ。

 編曲もまた多様だ。彼をよく知る人達は‘羅勲児の歌を同じように歌えない,公演をする度に伴奏、編曲等にいつも変化をつける’と言う。特に1984年に発表した‘18歳のスー二’の変身を調べてみると、これがよくわかる。
歌を発表した頃に撮影されたミュージックビデオで羅勲児は韓服に加えチャンスンのわき腹を握って声を限りにスー二を呼んだ。そして約20年後には田舎娘スーニが‘テクノ18歳スーニ’に変身した。衣裳は破れたGパンにサングラスだった。あぁ、その時の衝撃といったら彼のこのような努力は観客達に、お金を出して見るに値する見物だ、という認識をさせてくれると同時に次は何が出るか、と云う気掛かりを抱かせるのだ。このような現象は朝鮮芸能人達の伝統である‘その時々に違った舞台進行即ち、即興性’と通じる面が有る。 昨日と違う今日の公演或いは即興性で代弁されるバラエティーに対する韓国人の欲求は根深い。
我々の伝統舞台芸術家は舞台で要求される音楽や物語に、或いは同じ曲を練習していても昨日とは違う今日の音楽を見せる努力を重視した。そうしてみると観客達も当然にその多様性を要求するようになった。

(おおきに注:以下原文13行分を和訳追加しました。ー沈相健の逸話ー緑字)

  我々の音楽の即興性を説明する逸話の中に伽耶琴散調の名人シム・サンゴン=沈相健1889〜1965=の事例が圧巻だ。
或る生徒が彼に散調を習った。教わった内容を一生懸命練習して次の日演奏して見たら沈名人は二言を待たずに“そうではない”と言うのが常だった。
或る時は先生の音を録音してその通り練習して来た。生徒は演奏を終えて意気揚々とした眼差しで先生を見つめた。しかし先生は又こう言った。“伽耶琴演奏はその様にするのではない。”
以前と変わらない評価に学生は頭のてっぺんまで怒りが込み上がって来た。それで録音しておいた先生の演奏を聞いて貰った。やっぱり寸分違わず同じだった。
その時、沈相健は彼の弟子に韓国音楽史に永く残る名言を伝えた。
“それは昨日の音であって、今日の音では無い。”
我が国の音楽がどれ程に即興性を強調してきたかが分かる逸話だ。
実際に沈相健の演奏はその日の雰囲気と本人が感じる興によって骨組に大きな差が有ったと伝わる。
(以上和訳追加2015.4.20)

 羅勲児の歌の中には“昔の歌”が多い。 1960年代から歌謡舞台を牛耳って来たから30年を超す曲もざらに有る。 それでも彼の歌は全然古臭くない。唱法の微妙な変化の為だと言うかもしれないが 何よりも編曲と舞台演出等“現在化”しようとする努力のせいだ。
同じ歌でもって舞踊から伴奏までなぜこんなに多様な試みが出来るのかと訊いたら 羅勲児はこう答えるのではないだろうか? “昨日歌ったのは昨日の歌で今日歌ったのは今日の歌だから” 彼の歌はいつも‘今日’の歌だ。タイトルとメロディー、歌詞は同じでも 昨日聴いた‘雑草’と今日聴いた‘雑草’は全く違う。

彼が‘曲を作る事と舞台’に集中出来るようにした
原動力は歌手としての本分に忠実だったことだ。
彼は歌と公演以外はわき目もふらなかった。
社会的に言いたい事が有る時も
歌手と云う本分を絶対に脱しなかった。
羅勲児は自身が言いたい事を歌手らしく歌で語った。
(日本語訳:byおおきに2014.6.13)

【本文Part2-1】

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