韓国の本【不朽の芸人・羅勲児】本文Part2−1

肝臓に良い食べ物ばかり探していた

 羅勲児は神秘主義にこだわる為に人間的な面貌が良く知られていない側面が有る。
 実際には彼はカリスマと共に細やかな面も有った。彼とマネジャーとの間に有った事を聞けばすぐ頷ける。

最も大変な時、自分の足で訪ねて来た人
「フナ兄さん、いらっしゃいますか?」
 金芝美と別れた羅勲児が大田の某アパートでカムバックを準備している時だった。 ある日、釜山から一人の後輩が訪ねて来た。 背はそう高くなかったが図体が大きくイカツかった。彼が即ちハジュンア室長であった。
「荷物運びでもするから付いて回るだけさせてください。」
 後からわかった事だが彼は歌手志望生だった。羅勲児のカムバック消息を聞いてすぐさま走って来たと言った。 羅勲児としては有り難い事だった。みんなが懐疑的な視線で見る時だった。誰も彼も羅勲児のマネジャーの席を嫌がる場面に自ら訪ねて来てマネジャーを自任したのでどれほど嬉しかった事か。

 当時羅勲児は金芝美に全ての物を全部与えて手ぶらで出て行った筈だった。主食はラーメン。 南珍と共にライバル時代をくりひろげ、最高の女優と結婚した彼だったが好事は篶敢生心だった。‘鷲が墜落すれば鶏にも軽蔑される’というから当時羅勲児の立場がまさにそうだった。

 ハ室長は羅勲児と一緒にラーメンで食事を済ませながら全国を舞台でスケジュールを確保した。 文字通り羅勲児と苦楽を共にした。ーーハジュンアは後に室長から部長に、後には専務まで進級したがこの本では便宜上、ずっと室長と呼ぶ事にするーー

 彼は羅勲児が軌道に乗った後も初心を忘れず、言われていない事まで察してテキパキこなした。券売所の検票は勿論、座席表の絵を書いて置いて販売された座席まで几帳面にチェックした。他の職員に任せても良いことだが彼は手ずからすべてのことを進んで処理した。

 この様に多忙な中でも自身の夢を捨てなかった。歌に対する夢だ。彼は公演が無い日には暇ある度に録音をして“歌うハ専務”と云うメドレー音盤を出した。羅勲児には秘密だった。迷惑になるかを考えてそうしたようだった。しかし羅勲児がハ室長の夢を知っていたとしたら最高のスタッフに付けてくれなかったかと思う。

“つらくないです。大丈夫です”と言う・・・しかし
思いの外、地位を取り戻して行った1980年代後半頃、ハ室長に嬉しく無い消息が見つかった。肝臓が良くないと云う事だった。大邱へ公演に行った途中、肝臓検査を受けたら、深刻だとの検査結果が出た。

 羅勲児はその時から地方公演に行く時には前もって肝臓に良い食事を売る飲食店を把握しておいて、その店が近い所のホテルに旅装を解いた。一食でも肝臓に良い物を食べさせられるようにしょうとの羅勲児の配慮だった。

 しかしハ室長はとうとう健康を保てなかった。肝臓が急激に悪くなって1993年には肝癌で入院した。羅勲児は彼を生かそうとあちこちに飛び回った。

“ソウルへ一度来い” その頃、羅勲児から電話が掛かって来た。アメリカ公演に行く4日前だった。私はソウルへ上京して羅勲児と一緒にハ室長の家に行った。彼は部屋に横たわっていたがノソリノソリと居間に這って出て来た。
“兄さん、私は死にません。大丈夫です!”

 病色がはっきり現れている彼の顔に人の良い笑みが広がった。

 羅勲児は次の日、ハ室長を韓国に残して‘海辺の女’を作曲したパクソンキュをマネジャーにしてアメリカへ発った。

 暫くしてハ室長は結局亡くなった。私は羅勲児があれ程悲しみで胸を痛めた姿を見たことが無い。私をソウルへ呼んだのも死ぬ前に挨拶でもという意味だったのだ。私も彼の死が他人事の様に感じられなかった。今も時々ハ室長の(釜山訛りの)声がよみがえる。
‘兄さんよ、一ヶ月後に大邱に公演を取りました。崔会長さん(=羅勲児)と一緒に行ってお目に掛かります’
特に秋風が吹き始める頃には彼の活気に満ちて気立てが優しい声が切実に聞きたくなる。

 2013年羅勲児の現在のマネジャー子息の結婚式に行く時、羅勲児が現れるかも知れない予感を持ったのは実はハ室長のせいだった。ハ室長は羅勲児や私にマネジャーの教科書を見せてくれたと言っても過言では無い。又、マネジャーに対する認識もいっぱい変えた。多分羅勲児はハ室長と共に活動しながらマネジャーを友達以上の存在と思うようになったようだ。

(日本語訳:byおおきに2014.6.18)

【本文Part2-2】

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