韓国の本【不朽の芸人・羅勲児】本文Part1−3

羅勲児の隠退計画、本当はこうだった

最後の公式行事で羅勲児曰く(いわく)

  2007年始め、私は羅勲児と最後の公式行事を行なった。勿論当時はそれが最後になるとは知らなかった。振り返ってみればその時既に弓弦がピンと張って引かれていたが私はただ日常的な山歩きだとばかり思っていた。

 その年の2月、羅勲児をはじめ、公演スタッフ100名が大邱八公山の山裾に集まった。登攀を兼ねた団結大会だった。少し前に雪が降って足首まではまった。2,3人づつ組になって山に登り始めた。私は羅勲児と一緒に登った。彼は途中疲れた様子を見せた。

 “お前と一緒に登っていなかったら途中で降りて行ったな”
そんな弱い姿は久しぶりだった。彼はいつも体力を管理した。車で移動しながらでもアレイを持って運動をするほどだった。しかし、登山は殆んどしなかった。頻繁な公演中は山へ登る時間が無いから。

 疲れる彼の姿を見て私は軽率にも隠退を思い浮かべた。永遠なものは無い。彼もいつかは舞台から引退しなければならない筈だった。体をとても根気よく管理しても歳月は避けていくことはない。考えてみれば彼と私が出会った歳月が既に40年だ。であれば、どれほど長い年月を歌手として活動していたことか。

 何年か前から彼は時々言った。いつ頃舞台を降りるのがいいだろうか、と。 私はその度に“行ける時まで行ってみなければ”という言葉ではっきりとした答えを避けたものだ。
私は顎まで上がる息に加え、あれこれ考えて平素よりも重い足取りでかろうじて歩み進んだ。時折羅勲児が私の手を掴んで引っ張った。

 団結会の全体的な雰囲気は良かった。それもその筈でその日、共に来たスタッフは普通10年以上になる人達だった。家族とかわりない間柄だった。その中で音響監督が一番記憶に残る。私は彼をいつも‘李部長’と呼んでいたので70歳くらいになられる。彼は‘全国のど自慢’スタッフであったが、羅勲児チームへ入って20年近く公演音響を担当していた。私が見るに、羅勲児は李部長が作業しなければマイクを持たないようだったのだ。 彼は李部長が音響を調節したらいつも“とでもいいです”と言って満足げな表情を見せた。

  他のスタッフ達も同様だ。羅勲児は実力が検証できない人はチームへ入れないのだ。又一度迎え入れたら、まあまあなら解雇しない。それで羅勲児を‘義理派’だというようだ。私は、羅勲児がマネージャーの子息の結婚式にいきなり出てきたのもこのような気立てによるものと思った。

 話が出たついでにもう少し話を広げてみよう。 スタッフ達は家族になった後も続いて良い状態になった。それは一年に80回から100回の公演をすることが最も大きな原因だっただろうが羅勲児程徹底したリハーサルをする歌手はいないと云う事も除く事が出来ない要因だ。

  或る人が30分から1時間余りバンドと歌を合わせて降りてくるけれど、羅勲児は基本が三回だ。時間も2時間以上かかる。一回リハーサルは音楽、二回目は本人の歌そして三回目は全体リハーサルだ。歌と伴奏は勿論、照明、音響、小道具、特殊効果までチェックする。スタッフ達の実力が付かざるを得ない理由だ。 点検は1部公演の後にも継続される。羅勲児は実際の公演で失敗した部分が有れば忘れないでいる2部公演前に必ず指摘して舞台に上がった。 スタッフ達が緊張を緩められない。

  公演後にはチーム長級の人達とホテルの部屋に集まってティプリ(おおきに注:うちあげ)を兼ねた会議をする。簡単な食事をしながらその日の公演を一つ一つ振り返って虚心坦懐に意見をとりかわすのだ。このような式でしたので全ての公演が他の公演の練習になる。

  私は羅勲児の公演チームを‘家族形中小企業’と呼ぼうと思う。 事業をしたとすれば無条件成功する、彼の家庭で血を分けた兄弟のようなチームワークと粘り強さで団結してとても難しい課業でも成し遂げてしまうような企業だ。 流し営業のようにどっと集まって来て‘ショー’が終わったら一時にバラバラになるコンサートとは次元が違う。 責任感と名誉を持って仕事をするから結果が良いほかない。
 私はその日、何の必要が有ってスタッフ達を八公山へ呼び集めるのか、どんな深い考えが有ったのか考えた。

(おおきに注:以下原文6行分を和訳追加しました。緑字)

八公山は統一新羅時代まで公山と呼ばれたが太祖王建とキョンフォンの戦いが繰り広げられた後、山の名が変わった。トンスの戦いでシンスンギョムを始め太祖の八公臣が戦死したので 王建はこの者達の功を称えて山の名前を新しく付けたと伝わっている。
王と臣下、リーダーと彼に従う構成員間の執拗な程の義理が感じられる名だ。
羅勲児もやはり彼を公臣の様に従う構成員達がギッシリ並んでいる。 これらの功を称える意味で敢えて八公山を選んだのでは無いだろうか?
(以上和訳追加2014.11.20)

羅勲児曰く “いつ頃降りようか?”
 頂上でしばらく休んだ。白い雪に覆われた八公山は壮観だった。
“いつ頃降りようか?”
用意しておいた熱い珈琲を飲んでいた羅勲児が独り言のようにやや低い声で訊ねた。 冷たい風に汗は拭われてしまったが疲れた後が顔にありありと見えた。 私は彼をしばらくじっと見ていたがとても悲壮な口調で答えた。
“いくつかあるが、今は駄目だ。ファンが望む時まで舞台に残らなくちゃ!”
すると羅勲児がにっこり笑った。
“そうじゃない 山から何時頃に降りるのがいいか、と。”
私ははっと気がついて作り笑いをふきだした。羅勲児も豪傑笑いをした。私は面目なくて顔が火照った。

  羅勲児は最上層にいる。その時も今もこの事実は変わりない。しかし、いつまでも舞台を維持することはできない。時節が変わればその時季を享受する生物が他の季節の生物に最高の席をあけるように。 羅勲児はいつ頃からか終局をどのように飾ろうかずっと悩んだ。一番美しい締め括りが何であるかについて最も近い人たちとひそひそ話を交わしていた。

  それなりの結論は得た。それは平穏に締め括りをする事だった。壮大に引退舞台を構えるのではなく、音も無く風が静まるように静かに舞台を離れることにした。 これが歌手として、又、一人の人間として最も美しい締め括りだと思ったという事だ。私も大々的に宣伝して引退“ショー”をするのは反対だ。それこそ‘脇腹刺してお辞儀を受ける(おおきに注:赤字部分意味不明)’のと同然だ。

  蛇足のような話だが、噂好きな人達の主張する2008年の記者会見が事実上の引退会見 だ、と私は思わない。羅勲児が心に描いていた美しい退場とは余りに違うからだ。 第一、時期が計画外だ。
私が見るに、羅勲児の体力は今も40代だ。歌う力が残っているので舞台を降りることは話にならない。しかも余りにけたたましかった。騒動もそんなに騒動ではなかった。おそらく、羅勲児の断固とした態度と粘りが無かったら状況はもっと乱場となっていたのだ。 私は‘羅勲児引退’云々言う声には絶対同意出来ない。彼の自尊心について見る場合もそれは違う。うやむやに済ませるなど話にならない。侮辱感に疲れることはあるだろうがそうして気持ちを上手く取り纏めて再び立ち直る時間が必要だろうが、このまま退いて曖昧に去るとは思わない。これは彼が平生持する歌客としての自尊心が許さないことなのだ。私は彼が必ず帰ってくると確信する。どうするか決心がつかなくて躊躇しているのなら、 40年の親舊(旧友)の資格で彼の家の前へ行って、早く出て来い、と叫びたい。

  その日(2007年2月)、羅勲児はかなり長い間雪景を見下ろしていた。小さい子供のように屈託ない笑みを浮かべてあれこれと冗談を交わした。山を踏破した男としての成就の感、そして大韓民国のどの山と比べても劣らない雪渓、家族より近い人々に囲まれて彼は本当に幸せな時間を過ごした。私はそう思う。
下山は桐華寺の裏道を選んだ。そこで忘れる事が出来ない写真を撮った。以後結婚式場で再び会うまで彼と一緒に写真を撮る機会は無かった。勿論その時は知らなかった。ただ簡単な記念写真とばかり思っていた。

  羅勲児“わたしは一人ほおって置かれてもよく遊ぶ”
八公山団結大会の後、情勢が急迫して動き始めた。
羅勲児は大概3月から公演を始めた。その年も世宗文化会館公演が確保されていた。所が急に公演が取り消しになった。よくない噂が本格的に動き始めた。隠退、離婚等の話が放送界を中心に広がった。

  最初、彼はこの様な事を詳しく知らなかったのだ。既に様々な噂がインターネットを通して収拾が付かない広がりようだったが彼はインターネットを殆どしなかったからだ。 確信はないが、モニター画面を見つめながら時間を過ごす事はなかったのだろう。
公演が取り消された後、彼は国内あちこちを回って旅行した。この時も一人だった。彼は公演中でなければマネージャーを連れて歩かない。彼がいつも言う言葉が有る。
“私は一人ほおって置かれてもよく遊ぶ”
生まれつきの性格だった。私の記憶では若い時もそうだった。‘うわさ’の為に仕方なく隠遁するスタイルではなかった。一人だけの時間を持つという一面では近頃はむしろ幸せかも知れない。

  余談になるが、羅勲児は他の芸能人のように知らない人と写真を撮ることは滅多に無い。その為にインターネットで‘羅勲児’を検索してみても誰かと一緒に撮った写真は指で数えるほどだ。
こうして数ヶ月間の国内旅行を楽しむが、秋頃外国へ出たのがわかった。彼の外国行きについて‘逃避性’の性格だと云う人が多いが、これは明らかに誤解だ。彼が一番楽しい事が旅行で、国内では彼を知る目が多い為に海外へ出て行くだけなのだ。

  羅勲児は深い湖水のように黙っていたが、世間はぐらぐらと熱かった。彼の旅行中“そうだろう”と言う人より“どうした?”と言う人のほうが多かった。噂は小さな雪の塊が坂道を転がるように図体を大きくした。
その間、私は羅勲児の代弁人になった。世間の好奇心は想像を超越した。あちこちから電話がかかってきた。それは、どれくらい荒唐であったか。 長い間彼の傍に持してきたが彼がデマに悩まされるのを見ておれなかった。それに、それもちょっとやそっとの悪意ではなかった。一体この噂をだれが撒き散らし始めたのか。犯人があきらかになれば駆けつけて胸倉を掴みたい心情だった。全国民を楽しませてくれた歌手が出し抜けに犯罪者扱いを受けるようになったのだ。一体どんな過ちを犯したというのか。

  2008年、新年に入るとすぐ羅勲児も更なる我慢に疲れたのか記者会見の話が流れ出た。後日聞いた話だが最初彼は‘こうではない’と大した事では無いとやり過ごした。ところが時間が経つにつれ静かになるようでは無い気が生じた、と。

  前にも言ったが、彼は“こうしていては女優たちが死にそうだ”と思って思い切って記者会見を申し出た。彼が‘舞台’で無い壇上へ上がったのは何十年振りかの事だった。私はその事自体がとても恥辱のような経験であっただろうと信じる。
私はテレビを通し中継された彼の姿から‘大胆な性格’と‘義理’を同時に見た。彼の平素の表情をよく知っている中だから、彼の心がそのまま感じられた。デマに襲われている後輩たちの為にどれほど悩んだかを切々と感じた。
私は女優たちの為に出て来た彼の言葉に拍手を送りたい。

(おおきに注:以下原文14行分和訳追加しました。緑字)

仮定を一つしてみよう。もし彼がうやむやに去った儘、永遠に引退をした場合、そして過去の噂に何の解明も無く長い歳月が流れてしまったなら女優達はどうなっただろうか? 私は極端な選択をした場合もあり得ると思う。彼女達がどんな活動をする事が出来ただろうか。 極端的なネチズン達が言う度に是非を正して根拠を捉えるなんてし無かっただろう。
 少し前、ペク・チヨンが自身の結婚と流産について悪質な書き込みをしたネチズンを告訴したという話を聞いた。
加害者達が謝罪をすると言ったが彼女は記者会見を通して 果敢に合意を拒否した。私はペク・チヨンに拍手をしてあげたい。
芸能人だから、大衆が食べさせている人じゃないかとまで言って 流布しても構わないと考えるのは文字通り通常ではない。 彼等も人間だ。
‘千人が指を指せば病気が無いのに死ぬ’と云う言葉が有る。 実際にネチズンの指は既に幾人かの人を殺さなかったか。
(以上和訳追加2014.11.24)

  記者会見以後噂は静かになった。私は内心せいせいした気分になった。しかし終わりではなかった。また臥病説が広がり始めた。あきれた。 事が有る度に出てきて記者会見をする事なんてしておれない。今はどうにもしょうがないと思えた。再び出てきて堂々と公演をする事!。健康な姿を見せる事が一番確実な‘記者会見’であるのだ。

 (おおきに注:以下ニーチェの言葉原文4行和訳追加しました。緑字)

一部の人は一人で過ごす事に慣れ過ぎている。 従って私達はどんな人にも一人でいる事を許して、 よく起こる事ではあるが、一人で過ごす彼らに同情してそばに行くなんて愚かな事はしてはならない。
ニーチェの著書<人間的な、あまりに人間的な>より
(以上和訳追加2014.12.1)

(日本語訳:byおおきに2014.5.14)

【本文Part1-4】

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