(おおきに注:以下プレスリー部分の原文12行分和訳追加しました。緑字)
“私は概算で1000名を超す女と出会った。しかし愛を感じたのはたった一度だけだった。” <エルビスプレスリー>‘芸人(コァンデ)’という言葉の元来の意味は?
(おおきに注:以下コァンデに関する原文15行分和訳追加しました。緑字)
芸能界に‘暴露する’風潮が大勢を掴んでいるこの頃、若干の‘大型’芸能人達の徹底した自己管理を聞いて潔癖症だと決めつける人が多い。 言い換えて見れば我々が知っている‘演芸人’の元来の意味は‘仮面’或いは‘仮面を被った人’ということになる。
‘芸人(コァンデ)’は なぜ仮面を被ったのか。彼らは自分自身では無い他の存在として完全に変態する為に仮面という極端的選択をしたのだ。
羅勲児が言う’プロ’という言葉の意味とも一脈相通じる。
仮面は大部分否定的な意味で被るが必ずそうばかりでは無い。偽善者でなくても誰でも仮面を被る。
痛くもないのに痛い振り、さほど疲れていないのに疲れた振り、腹が立っていないのに立った振り、などなど。
これが人生ではないか。
(おおきに注:以下原文12行分を和訳追加しました。緑字)
私の特性をすべて働かせて暮らしたとして世間のどこの誰がこれを受け取るだろうか。 心の中でウンウン痛む哀歓も無い人生を完成する事は出来ない。 非難を受けなくてはならないのはコァンデや仮面踊りをして暮らしている庶民では無く、名誉欲の為に‘清潔で立派な振りの仮面を被っている人達’ではないだろうか? つまり、我々は仮面の一生を生きている。素顔よりもっと真実な仮面がいくらでもある。
いわば羅勲児の‘泣くなーぁ なんで泣く たかが恋ゆえに’という歌詞の中に登場する‘そうではない振り’というアドバイスは仮面を被ることだ。
どうして、そうでない事ができるのか。これが我々の人生だ。
世の中に存在する仮面の中で最も哀切な事は即ち‘母’が被る仮面だ。
羅勲児の‘熟柿’という歌の中にその仮面が少し言及されている。
‘細い木の枝の鞭を打って後ろ向いて座って泣いている母さんを思い出す’
子供の将来の為に厳しい仮面を被って鞭を打つけれど、子供のふくらはぎに赤い痕が生じているのを見ては後ろ向いて座って仮面を脱いで涙を流したのだ。
歳が経てば幼い子供も変わっていくので、もしかしたら仮面をかぶらなければならない事がだんだん減って素顔で過ごす日常が長くなるのではないか?
歌手達の徹底した自己管理の中には我々の暮しが表現されている。
どこの誰もが仮面を被らないではおれない。その上、彼の本分は‘芸人(コァンデ)’だ。
仮面を被る事が彼の職業だ。本人の言葉で‘プロ’だ。
‘神秘主義’コンセプトを持つ人達に無理にその仮面を取るように強要することは愛情を越える執着だ。
‘どうせ人生というのは演劇ではないかね!’
ーー羅勲児の‘なんで泣く’よりーー