韓国の本【不朽の芸人・羅勲児】本文Part1−7b

舞台は歌手の故郷だ

 舞台が発生して歌手が生まれたのか、歌手のお陰で舞台が拡がったのだろうか?
前後を選べないが、‘歌手は舞台で歌を歌う人’と云う定義は歳月がいくら経っても変わる事は無い。‘姿無い歌手’の様に音盤だけで活動する歌手は最近出て来た非常に異例的な現象であるだけだ。
公演文化が何千年の間持続されてきた点を考え合わせてみれば、だ。

 舞台は歌手にとってとても重要な空間だ。まず大衆の反応を直接観察出来る。シェークスピアは自分の演劇が上演される時、舞台の横で観客の反応を窺って本人が意図した所で笑いや溜息が出てこなければその部分を修正した。直接見て聞いて感じる事を他の舞台に反映するから世代を越える名作が生まれるのだ。シェークスピアの 様に観客の心をキャッチしないと素晴らしい作品が出て来ない。

 又直接見せて聞かせてくれることは公演者の本来の姿だ。公演者が自分の芸を披露する‘舞台’が出来てから、蓄音機が発明されるまでは音を録音して聞かせてくれる歌手は居なかった。どれほど遠くても直に行って聞く事が歌手の歌に接する唯一の方法だった。リップシンク(くちぱく)が避難を受ける事も根本的に問い詰めれば数千、数百年間伝わって来たライブの伝統の為なのかも知れない。
ところがこのようなライブの伝統がたじろぐ時が有った。我が国ではカラーテレビが非常に普及した1980年代がそうだった。各家庭にテレビとラジオを買い入れて歌手達は公演よりも音盤販売により集中した。人びとは街を歩きながらウォークマンで音楽を鑑賞し、家ではテレビで舞台を‘見た’ 。
コンピューターという破壊的な道具が出て来る前、歌手達は音盤だけ販売しても充分に収入を得た。 数千年の間、舞台で暮らし舞台で死んだ歌客の姿がほとんど消滅する羽目に陥った。

 舞台に忠実な歌手が結局生き残る
しかし歌手の本来の姿をそのまま守った歌手達が居た。その代表的な人物が即、羅勲児だ。 彼はテレビより直接行って見てこそ真価がわかる歌手として定評がある。 あまりにもトップスターなので‘独壇場’ばかり飾るという嫉妬混じりの話も流れ出たが 彼の舞台を見ればそんなことはないという思いが自然に湧く。 それこそ羅勲児だけが出来る羅勲児印舞台が繰り広げられた。 舞台、バックダンサー、音楽、進行、コメント、そして公演場に至るまで あるゆる事が羅勲児的だ。ひたすら申し分なく飾られた舞台が目の前に繰り広げられた。
外国でこれと似た芸を探せばポップの皇帝マイケルジャクソンを挙げるだろう。 彼は公演を通し自身の全てを見せようとし、観客たちは公演の度にただ彼だけが見せる事ができる踊りと歌そして舞台装置に熱狂した。 特に1996年から1997年まで2年に渡って繰り広げられたヒストリーツアーは 5大陸35カ国で82回の公演を通し総450万の観客を動員した。 物凄い観客の数字も驚くべきだが彼がどれ程公演に没頭していたかは一目でわかる。

  マイケルジャクソンと羅勲児。 彼らこそ公演マニアと言っても過言ではない。
彼らの‘名声’が日に日に上がっている事は歌手の本来の姿に忠実な対価だと言える。
要するに、歌手は大衆と離れては困るのだ。
たまに“自分の高次元的な音楽世界に没入してみると大衆と距離が生じた”
という歌手(兼作曲家)がいた。それ程根拠がない話ではない。
しかし高級と大衆、或いは高級と低級をこの様に分けるのは困る。 反応をするか否かの問題ではなく、どう反応するか、がより重要な尺度だ。
即ち、高級に反応すれば高級になり低級に反応すれば通俗に転落するということだ。

  シェークスピアは最も高級な芸術家だが彼の実力は大衆に依存したことが多い。 大衆の反応と心理を細心に調べたという点のみを見れば近頃のどの大衆芸術家よりも大衆的だった。 但し彼はそれなりの水準にしょうと努力したために傑作を残す事が出来たという事だ。

;断言するに“お前は歌手だ

  どんな歌手であれ消費者である大衆にアピールする為に最善の労力を注がないなら それは芸能活動では無く趣味活動だ。趣味の基準は芸術と比較して非常に低い。 社会に迷惑を掛けないで本人が満足すれば充分だ。 誰が感動しても呼応しなくても構わない。

  時折歌を趣味で歌っているのではないかと思う歌手がいる。 最善を尽くして音楽活動をすればいくらでも良い曲と歌が生まれるのに 殆ど何の考えも無く満ち足りて音楽をする人達。 ‘ハングリー’精神が不足しているという程度で無く歌手というタイトルが勿体無いほどだ。

  歌手達の怠慢な姿はコンサートにも影響を及ぼす。
某公演企画者は“保証をするなら適切にしてそうで無ければ・・”
という式の‘満腹’歌手が多いと告白した。 彼らの要求をむやみに聞いてやる事はできない。 収支勘定を合わせる為に入場料を挙げた為に興業に失敗する可能性が高まるからだ。 一時ブームを成した公演も次第に興味が無くなる成り行きだ。 特に地方は一層だ。

  彼らの為に最も被害を受ける事は彼らをスターとして育てる世代の人だ。 新しい世代の音楽を聴くと何か合わなくて自分の世代と通じる音楽を作れる歌手達はストライキ中とか、 まったく聞き処有る歌が無いのだ。
歌手はいつも自分を待っている人達の心の真ん中へ入いらなければならない。 大衆の心に深く入り込む為に刻苦の労力を傾注する姿勢を捨てたら歌手という名札も取り外さなければならないのだ。

  ‘私は歌手だ’と云う番組は大衆の人気を糧として生きる歌手の本分を覚醒させる番組だ。 視聴者達が熱狂する理由も、自分の考えに従ってであれ、背中を押されてであれ、 ‘本当’の歌手に戻ったスター達が懐かしい原因であるようだ。
この番組名をパロディー化して言えば“羅勲児、お前は歌手だ”

(日本語訳:byおおきに2015.3.3)

【本文Part1-8】

目次へ戻る

羅勲児日本ファンサイトTOPへ羅勲児日本ファンサイトTOPへ