韓国の本【不朽の芸人・羅勲児】本文Part1−8

羅勲児、カムバックはなぜ・・・・旬が過ぎた!

 “やり直すって? 旬が過ぎてるのに”
振り返ってみると羅勲児が1980年代初半よりも低評価された時は無かったようだ。ナイトクラブなどの夜舞台が好況を成していた頃だった。
羅勲児が隠遁生活を畳んで歌謡界に戻って来たという消息にもクラブの社長達は気乗りしない反応だった。
’70年代の歌手を誰が見にくるんだ と云う雰囲気だった。

 ‘たかが恋のために’と歌う時はアクセントが違う
彼は7年間舞台と放送から完璧に消えていた。羅勲児が金芝美と隠棲生活に入る前にブラウン管と劇場で‘スター’の扱いを受けて歌を歌う期間は5年余りだった。
1973年から3年間は軍服務をして除隊後はシンタンジン(新灘津)で根を下ろした。活動した期間より休んだ歳月がより長かったという計算だ。

 大衆の視線から消えた間は音楽をする事もなかった。
金芝美と一緒に新灘津、大田等に住んで音楽と縁を絶つ如くだった。その代わりに絵とゴルフ等を習いながらJC(青年会議所)会長を引き受けて活動した。歌手としては完全な引退であった。

 しかしながら音楽的熱情は残っていた。歌手が舞台と音楽、観客達の拍手を心から完全に消す事は出来無い。鳥籠の鳥も彼ほど息苦しいことは無いだろう。
推測するに金芝美と別れたのは音楽の為でなかったかと思う。 羅勲児は再び音楽をやりたいと言い、金芝美は反対した。 多分彼女は‘あまりにも長い間休んで大変だろう’と思ったのかもしれない。

 山川が変わるために10年かかるが、芸能界は一年一年が違う。彼と同じ頃トップスターとして活動していた曹美々や李サンヨルのような歌手もアメリカと日本へ去って数年ぶりに殆ど無名級歌手に転落してしまっていた。
”羅勲児も70年代羅勲児じゃないか。今出て来てもどれ程人気を集めるのか”
と云う分析がそれなりの説得力を持っている理由だった。

 精神的にも大変な時期だった。そぶりには見せなかったが本人が作詞作曲した‘何で泣く’を歌う時は心に結び付いた感情がにじみ出た。私は彼が舞台で‘たかが恋ゆえに’という歌詞を歌う時はアクセントが少し違っていると思った。金と恋、全て男らしくさっさと脱ぎ捨てたが人間である以上感情がない事は無かった為であろう。そのアクセントはカムバック後3年近くはにじみ出たようだ。

 羅勲児はその年の春、ソウルでカムバック舞台を持った。‘AAA’という今で言えば企画社のようなショー団と共に劇場公演をした。その時商売になるんだなあという印象を受けた。しかしながら以前の彼の興業力を示す事が出来るかと云う疑問が完全に消えた事は無かった。マネージャーは“見ろ、やれてるじゃないか” と言って調子に乗って東西奔走したがナイトクラブ業主と舞台関係者は腕組みをして見守っている雰囲気だった。

 大邱はより酷かった。マネージャーである하(ハ)室長は“羅勲児ショーは一回毎にホールがあふれ出たのに。本当は人が集まるのに” と言って惜しんだ。 ともあれマネージャーの活躍のおかげで紆余曲折の末、初めての舞台が決まった。 ‘ナイトクラブ・カーネギ’だった。大邱だけを除けば7年ぶりのカムバックだった。‘カーネギ’はあまり大きい規模のナイトクラブでは無かったがそれすら‘確信が有ったか’よりただ試しに舞台へあがってみるということであった。結果は大当たりだった。平素と比べて4倍近い客が集まるためにホールは人だかりだった。

羅勲児 低評価に続くもう一回の失敗

 その頃 、また次の難関が羅勲児に訪れた。カーネギ公演後一年ぐらい行き来が途絶えていたが、マネージャーである하(ハ)室長に電話が来た。
“兄貴、崔会長ー 彼は羅勲児をいつも会長さんと呼んだー映画撮ったね。まともな映画だね!”

 1983年9月17日に封切りされた‘3日3晩’と云う映画だった。タレントのチャン・ソヒ(張瑞希)が羅勲児の娘役で出演していたこの映画は羅勲児が制作と主演を受け持った。
ちょっと稼いだお金をここへ全部注ぎ込んだ勘定だった。
羅勲児は張瑞希と一緒に大邱アジア劇場を訪問した。始めての上映の舞台挨拶に来たのだった。하(ハ)室長は朝からうきうきしていた。
“映画が上手くかなかったら(おおきに注:以下3文字訳出来ず)”
この言葉に私が冗談を投げ掛けた。“何、お前 顔でも出たのか?”
そういうと하(ハ)室長がにっこり笑って言った。 “おー。ご存じでしたか?私がこの映画に出演したじゃないですか”
私は映画の始めから終わりまで하(ハ)室長を探した。彼は台詞一つ無く空港で手を降る人達の間に紛れ込んでいた。

 この日、また意味深長な事があった。この日羅勲児一行は外車を一台選んで乗って来て降りて、劇場前で止めて置いたが駐車違反切符を切られたのだった。
“兄貴、車買って初切符を大邱で切られました!”
私は何故か不吉な予感が起こった。やっぱり映画は興業に失敗した。하(ハ)室長の言うとおりバサリと壊れた。
映画が栄えて滅びるなど映画界には常にあることだった。しかし羅勲児は内心ショックが大きかったようだ。事業所から思いのほか出演要請が入ってきて人気が戻って来たと思ったのに映画には全く反応しなかったからだ。

 私は歌手が演技をすることを反対しない。チョハンジョの言葉通り歌は3分ドラマだ。生の喜怒哀楽を表現する事は演技であれ歌であれ本質的に全く同じだ。特に歌と物語を並行したパンソリでは演技が必須的だった。あまり演技に傾く事はないけれど演技を1,2回程経験するのは良い事だと考える。
いずれにせよ羅勲児は‘3日3晩’失敗以降再び映画制作に乗り出さなかった。ひたすら歌でのみ勝負を掛け始めた。企画社を設立したのもその直後だった。言葉通り歌と公演にオールインをした。作詞と作曲を本格的に始めたこともこの時期だった。映画は苦杯を飲んだけれど歌のファンは一層望んだ。事業所が1年の先払いで納めて彼をまつりあげ始めた。又違った全盛期の始まりだった。

 余談だが、羅勲児は以降にも間違い無く一回苦杯を飲んだ事が有った。
1990年代中盤頃だった。大邱の某新聞社と手を組んで公演をしたが、広報不足で客席が半分ちょっと越す程度にとどまった。いつも売り切れを記録した羅勲児としては興ざめたに違いなかった。私はガランとした客席を見て彼がいつも薄氷を歩くように緊張して公演を準備し進行する理由をもう一度実感した。
(日本語訳:byおおきに2014.6.4)

【本文Part1-9】

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