韓国の本【不朽の芸人・羅勲児】本文Part1−9

羅勲児が青島雄鶏をそれほどに探した事情

 羅勲児の公演時間はとても正確で元の計画と殆ど5分も差が生じない。普通、公演が20〜30分づつ過ぎる事は有り得る事と考えてみれば本当に大変な正確さだ。全てピンと張った緊張感の結果なのだ。

 羅勲児は特にカムバック後、小道具を積極的に取り揃えた。メドレーを歌う時は洗濯板をドラムスティックでかき鳴らしたし、鍋を踏んだり、チョッパク(瓢、ひょうたん、ヒサゴ)を蹴る時もあった。男性に対する願望や恨を盛り込んだ歌を歌う時、クライマックスに瓢を蹴れば女性の観客達がカタルシスを感じるという事だった。

 このように取り纏めてみると小道具に関連するおもしろいエピソードも多い。
羅勲児がチョッパクを蹴った事情は
1990年代初半だった。我々は羅勲児を待ちながら労心焦思(気を揉み心を焦がす)していた。チョッパクの為だった。全国で使うチョッパクを大邱で買ったので、私が購買担当だった。マネジャーのハ室長が電話をかけて来て“兄貴、チョッパク五個ほど買って下さい”と言うと私は予め注文して置いて公演前日頃に訪問した。それでチョッパクを探しに行く事にした日の朝に店の主人から電話が来た。

 “どうしましょうか、チョッパクが無いんで。いくら探しても瓢が無くて。こんな状況はしょっちゅうは無いのに”

 羅勲児のこわばった表情が目の前をよぎった。我々はアタフタと西門市場を始め大邱市内の市場という市場を全部くまなく探した。そうしてやっとピョジュバク(ひょうたん)を一つ探し出した。チョッパクより大きさが小さかった。蹴る時の感じが弱くなるのは明らかだった。似た物を探したけれど羅勲児が受け取るかどうか気掛かりだった。ハ室長もピョジュバクを見て不安なそぶりを隠し切れなかった。
“どうすることも出来ないだろう”
ピョジュパクを見た羅勲児は気軽く事態を受け入れた。我々は安堵の吐息を呑み込んだ。

 或る時は“青島地鶏を買ってくれ”と云う注文が下った。八甲山へ行って良い鶏を探し写真を伝送したが“駄目だ。青島鶏を買え” と言った。私は青島を丸一日中歩き周った。なかなかいい奴だと思えば携帯カメラで撮ってマネジャーの携帯に電送した。羅勲児が自分で鶏を確認して、OKを貰うことにした。ところがずっとノーが出た。”説得力はあるが、元気が無い” と云うのが羅勲児の言葉だった。結局鶏を探すのは青島では無くハ甲山だった。
“使えるね”
とうとうOK信号が下りた。私は鶏をラーメン箱へ入れて金泉まで積んで行った。その間不祥事が起きた。金泉でマネージャーに鶏を渡そうと箱を開けたら鶏がフラフラしていた。車酔いをして鶏の糞が山盛りだった。
“あにき、こいつも元気が無いね”
ハ室長が泣きべそをかいた。しかし仕方なかった。私が言った。“ソウルへ行って水と餌をちょっとやれば首をまたコチコチ振り上げるだろう。持って行って見ろ”
私は今も気になる。羅勲児がなぜ頑固に青島鶏を探していたのか、又ソウルへ奉って送った青島鶏が村鶏(田舎っぺ)の偉相を十分に誇ったのか?
あの時の事を考えただけで今も一人でに笑いがこみ上げてくる。

 2003年には一抱えに余る木を舞台上に上げた。(曲名「18歳のスーニ」の)「杏の花が咲けば訪れた」と云う台詞で木に花が咲く姿を演出する為であった。本来は電子灯でする計画だったが彼の思いのままにならなかった。
“しょうがない”
羅勲児が考え出した対策は内部を掘り出した木の中に企画社の職員が入って手動で花を咲かせる事だった。職員が狭い木の筒に隠れて汗をだらだら流し、拍子に合わせて花を満開にさせる姿を見て私は羅勲児の欲心にもう一度舌を巻いた。

(おおきに注:この舞台装置は、2006年の
春に世宗文化会館公演
秋に済州島公演の両方のオープニング曲「40回目の春」でも登場した。
2003年公演は知らなかったので2006年が初めてだと思っていた。)

10針以上縫ったその日の事故

 羅勲児の舞台熱情を見せてくれる忘れられない事件が一つ有る。
2000年釜山KBSホール公演だった。第一部の舞台を終えて待機室へ戻って来たら、羅勲児の膝に血が流れ出ていた。先が尖って跳ね出た舞台セットの大きな釘に引っ掻かれたのだった。羅勲児は呻き声一つ出さず血でじっとりしたバジを脱いで傷した所を布で縛った。その上に衣装を着るので傷が隠れてしまった。第二部の間ずっと客席は勿論、公演関係者達も彼が膝が裂けた儘で歌を歌っている事実に気が付かなかったのだ。表情にも全く表れなかった。私さえも“血が沢山流れてもそんなに痛さはないみたいだ”と思った程だった。
公演が終わった後直ぐ応急室へ駆け込んだ。その日の羅勲児は10針余り縫った。
この事が有って3ヶ月後に羅勲児が口を開いた。 “あの時、私の痛みは死ぬかと思った” 私は驚きで舌を巻いた。あんなに我慢強くするからうまくいかないことなど有るか という。

気難しい羅勲児、ご飯が美味しくなければ公演しない

 カムバック以降、羅勲児の関心は次第に舞台だけで無く客席とチケット価格にまで拡大した。事実羅勲児も若い頃には公演要素の大部分を会社に委ねた。若い歌手なら誰もこのようだ。
羅勲児が替えたのは1980年代後半だった。勿論キッカケが有った。慶尚道の或る小都市ヘ公演に行ったのだが、それほど規模が小さな地域はその時が初めてだった。羅勲児と親密だったナイトクラブ社長があまりにすがりついたからだ。興業は大成功だった。農民達が耕運機と牛車に乗って来て公演を見た程だったし警察が出動して統制をするなど確かに騒動が起きたと言っても過言ではない。
だが、本当の問題は公演が終わった後に起こった。

 “酒代が4万ウォンもするのか?”
価格表を見た羅勲児が目を大きく見開いた。当時米一カマスの価格が8万ウォンであった。観客たちの中には百姓も多かった。その人たちの暮らし向きで4万ウォンは尋常の金額では無かったのだ。
羅勲児は“これから小都市公演は絶体しないことにしよう”と言った。
以後彼はディナーショーをする度に食事価格と入場料などを用心深くチェックした。そして一定金額以上は受け取らないようにした。
“私を見に来るファン達に度を越した負担をかけてはいけない”と云う心深い配慮だった。
更にはお客に出す食事まで自分で味見をした。社長に“食事がまずければ公演しない”と云うコケ脅しをしてから客が座る席に食膳を用意して食事を食べた。お客の目の高さから食事を食べてみる事だった。それで支配人と厨房長が緊張した表情でテーブル横でグルグル回るばかりだった。
こんな細心な心使いが“羅勲児コンサートはお金が惜しくない”と云う言葉を引き出すのであろう。
(日本語訳:byおおきに2014.6.9)

【本文Part1-10】

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