韓国の本【不朽の芸人・羅勲児】本文Part2−3

舞台に立たない時は何をしたのか?

 人々がよく私に尋ねた。
羅勲児は舞台に立たない時は何をしますか?
私は答えた。“舞台にいる時のように忙しい。”

 彼の一生を学生に例えたなら、彼はずっと高3だ。 舞台を控えている時は受験直前の高校生と変わりない。 彼が舞台へ上がる30分前には待機室へは誰も入れない。 いうなれば沈黙のルツボだ。 公演順序を一つ一つ思い浮かべながら心を整理しているのだ。

“なんで泣く”は誰を思いながら歌ったのか

 彼は常に公演という試験を控えている受験生のように過ごした。このような彼が、どこへ行くにも必ず準備する物が有った。歌詞ノートだ。 歌詞が思い浮かぶ度にすぐ鉛筆を取って書き留めた。寝るところにもノートと鉛筆を置いておいた。 良い歌の言葉が浮かんだら単語一つでもそのままぼやけてしまわない様にしようとする意地だ。 勿論ギターもいつも傍に有った。楽想が浮かべば歌詞ノートを広げてすかさず作曲に移った。

 勿論記憶力が悪いのではない。例を一つ挙げると、彼は全世界の首都を暗記していた。 我々の間で時折この国の首都は何処だという問題で論争が起きたら羅勲児は“恰好をつける”とぶっきらぼうにその国の首都をピシャリと言った。 後で調べたらそれで合っていた。1回2回のことではない。それ程に記憶力がずば抜けている。

 私の記憶では彼の歌詞ノートで誕生した最初の自作ヒット曲は‘なんで泣く’だった。 1982年に発表したこの歌はその前年に作曲した。 私は‘なんで泣く’がその頃の本人の心情を切々に盛り込んだ歌だと思う。 羅勲児があまり話をしないので確信するのは難しいが‘なんで泣く’は金芝美と別れた以後の心境を表現しているのではないかと思う。

 ‘泣くなーぁ 何で泣く たかが恋故に・・・・・’
歌を聞く度に“男がたかが恋故にだと!” と云う羅勲児の声が聞こえるようだ。わからないが彼は歌を歌いながら自分をなだめていたのだろう。

 羅勲児の作曲威力はデビュー当初からだったようだ。その時からギターを弾きながら知らない曲調を練習した。 1970年代初半‘涙が鎮静剤’というヒット曲を出した公務員歌手ユ・シンジの証言だ。

 ユ・シンジは生粋の大邱っ子で高校3学年であった1970年、 オアシスレコード・地球レコードと共に韓国3大レコード社として名が通っていた新世紀レコード社の 新人歌手選抜大会で最優秀賞を受賞して歌手の道へ入った。 ハスキーな唱法にペホ(「湖)を連想させる魅力的な低音の為にアルバムを出してすぐ人気歌手の班列に上がった。 そして人気の為にデビュー3年目に5枚のアルバムを出した。

  この頃ユ・シンジは巡回公演を沢山した。政府で主催する都民・市民慰安パーティーがしょっちゅう有ったので 羅勲児、崔喜準、チョンフンヒをはじめ、金テヒ、゙美美等当時のスター達と一緒に全国を廻った。 1972年にはペホと同じ舞台に立った。彼はその時‘作曲をするらしい’羅勲児に会ったと言った。
“待機室や車で自分の順番を待つ時、すぐギターをかき鳴らしたらしい。 その時は本当に熱情が凄いなぁと思ったが、今思い出してみたら作曲をしていたようだ。”
当時、作曲は歌手には余り魅力的な職業では無かった。 今のように著作権が確立していなくてヒット曲を出しても貧乏暮しが常だった。 代表的な人物が‘釜山港へ帰れ’を作曲した黄善友だった。 歌は空前のヒットを記録したが彼が手にしたお金は若干の手間賃だけだった。 作曲で金を稼ぐ作曲家は指折る程しかいなくて残りの人は言葉通り‘貧乏な芸術家’だった。

 ユ・シンジも歌詞を聞けばすぐに‘あ、その歌!’と浮かぶ位に沢山の歌の歌詞を書いたけれど、敢えて自分の名前を載せない場合が多いと言った。敢えてその必要が無いという感じだからだった。 また、作詞家が歌詞を書いてくれれば作曲家が曲を作りながら部分的に修正して 自身の名前を入れる場合も多かった。それでも構わなかった。 どうせ歌詞を書いて金を儲ける事はないと思ったわけだ。 当時、歌手は歌に集中した。 それなのに羅勲児が曲作りに心を傾けたのはお金ではなく音楽的熱情と解釈するしかない。

羅勲児と大邱の特別な因縁

 興味深いのは羅勲児の歌の中で大邱で作曲してヒットした曲が割りに多い点だ。 ‘空(コーン)’‘私の人生 涙で満たしても’‘アダムとイブのように’’おとこ’‘熟柿’などだ。 大邱と特別な因縁が有るというよりは、それだけいつも作曲をしたのだ。
ホテルで、ソウルに行く車の中で、彼は俄かによぎる楽想を絶対に流さなかった。 どんなに疲れてもだ。
“さ、聞いてみろ”
1982年頃だった。大邱の或るホテルの部屋で羅勲児がギターを弾いていた。 言うなれば新曲発表の瞬間だった。
‘この世で一人だけ、二人といない私の恋人よ。見て又見て見つめても・・・・・’
‘サラン’だった。
始めて聞いた時から歌詞がとてもよかった。ギター伴奏にマイク無しのライブで聴いた歌が今も耳に鮮明だ。
こんな時もあった。又、“さ、聞いてみろ”と言って歌うのだが、タイトルがすぐに理解出来なかった。それで私たちは訊ねた。
“ムシロはどんな意味?”
“特に決まった時でなく、いつでもという意味だ。”
今は羅勲児の歌のおかげで‘ムシロ’という単語が馴染みになったが、 彼が歌を発表した時は意味を知らない人が多かった。
以後発表した‘カルムリ’も“何だ?”と言う人が多かった。 比較的馴染みの言葉ではあったが、これも国語辞典を傍に置かない人がすぐにわかるのは難しいのだ。
羅勲児は歌詞の深みの為に読書もよくした。彼の寝室にはいつも本がきちんと揃えられていた。
マネージャーが本の入った鞄を持ち運んで寝室と移動車に備付けの棚に置いた。 その為に羅勲児はいつでも本を広げられた。
それで羅勲児の歌の言葉にはそれなりに本の気韻が感じられる歌詞が多い。 ‘なんで泣く’がそうだ。‘泣くな、なんで泣く、たかが恋ゆえに’という歌詞は 純朴な告白に歌っているが‘どうせ人生、演劇じゃないか’と言う言葉には この曲が恋の歌以上の感じがする。
その一つの言葉の為に全体的に決して軽く感じられないのだ。
2003年‘コーン(空)’は、より一層に非凡な内容を盛り込んでいる。
一見人生の虚無感を歌っているようだが、それが全てではない。
私が知る限りで羅勲児が念頭に置いていた人は政治家など腐敗した高級官僚達だった。
彼は歌手らしく‘生きて見ればわかるようになる、捨てると云う意味を’と言う歌詞で彼らを叱責したのだ。断言するに‘コーン(空)’は私達世代が全て消えた後も永遠に名曲として残るのではないだろうかと思う。
もう一つ、はっきりと確かめておきたい事は彼が作曲を‘本気で’したという点だ。
他のシンガソングライターは嘘っぱちか?勿論そうではない。
だが羅勲児が直接音符を書いて楽譜を完成したという話だ。
‘歌手、作曲家達’の中には口でメロディーだけを口ずさみ、 他の作曲者が音符を書いてくれる事例がたくさんある。 そのようにしても良い曲が出てくるのか、とまでは言わないが、しかし正当では無い様だ。

羅勲児が最も大切にする自作曲は?

 冗談にこんな質問をした時があった。
“作曲した歌の中で一番好きな曲は何かな?”
羅勲児は即時にこう答えた。
“10指を噛んで痛くない指は無い。私の歌も同じことだ”
そういえばどの曲が何もしないで何となく得られたものだろうか。
愛を書き、受ける結果であるので愛情も深いだろう。また、そうである為に、 ずっと良い曲が作れるのだろう。幸運にヒットする場合はその時だけ、長く持続出来ない。 羅勲児は努力でその幸運を幾度も握りしめた。これを幸運と言えるかどうかわからないけれど。
いくら頭が良くても努力する人を負かすことは出来ない。歌も同じではないだろうか。
羅勲児は永遠な学人だ。彼の根気と集中力は現役の高3もついていけないようだ。
彼が成功した最も重要な秘訣、根気よく作曲と舞台に集中出来るようにした原動力は 歌手としての本分に忠実だった事だ。彼は歌と公演以外にはどんな事にも脇見をしなかった。
社会的に言いたい事が有る時も同様だった。
‘コーン’のように彼は社会的に言いたい話が有っても歌手という本分を絶対に外れなかった。
私の周囲では政治界に飛び入るとか、事業家になったが歳月無為に過ごし、 満身創痍になった芸能人達がどれほど多くいたかわからない。 しかし、羅勲児は自分が言いたい事を歌手らしく歌で語った。 事実、政治をしようという申し入れはよく聞いた。 その度毎に羅勲児は一言の下に拒絶した。

 話が飛躍するかもしれないが、彼は記者会見さえコンサートの様にした。 本人のマイクだけつけておいて、残りのマイクは全て消したからだ。 このような意味で見れば‘記者会見’と云うこともあり大変だが、とにかく彼は 自身だけの公演をしたという事だ。音楽と歌の無いパホーマンスと事実だけ言った という事が既存の公演と違っただけのこと。

大阪で どよめいた‘独島は韓国の地’

 もう一つ、1996年大阪公演に関しても話したい。
羅勲児はこの公演中に‘ケジナ チンチンナネ’を歌いながら ‘独島は韓国の地(おおきに注:トットヌン ウリタン)’というコメントを放った。公演場には僑胞も多かったが日本人も少なくなかった。
ここで2つの事が見えてきたと思う。
一つ目は、前の文で言及したことだが、羅勲児が全ての事を舞台で言う歌手である点だ。
羅勲児は歌手が立つ‘場所=舞台’で歌手として歴史歪曲に抗議した。
教授達が論文を出したり本を書いて、又、政治家が声明を発表する如く、 歌手は当然舞台で歌詞と歌で自分の意見を述べなければならないという考えであったのだ。
二つ目は羅勲児が純粋に公演にだけ集中した点だ。
羅勲児、と言えば“お金を沢山儲けただろう?”と言う人が少なくないが、 彼にはお金は二番目の問題だ。ヒット曲を出す為に曲を書くのではなく、歌手で有る為に曲を作って歌うのだ。彼が万一、金でも権力でも 舞台と歌以外の他の何かを貪って 狙ったのなら、彼は絶対に独島の話を取りださなかっただろう。
日本で「トットヌン ウリタン(独島は我が土地)」と言った後は二度と日本公演を出来なくなる事もある。彼もその事をよく分かっていた。
芸能人の中には時には日本での人気に影響を及ぼすかを見て反日感情が見えるドラマや発言を避ける人がいると云う話を聞いた事がある。 確かに人気が落ちてそれと共に収益も下降曲線で背を向ける事になるのだ。
だが、羅勲児はこのような‘事態’を恐れなかった。 彼が日本市場に関心がなかったのかと言えば全くそうではない。
彼は1980年代に既に日本に進出して活動した戦跡がある。
大阪公演以後も又何度か日本公演をしたが彼は例え、それ以上公演をできなくなったとしても全然後悔しないのだ。私はそう思った。

 最近になっても大阪公演が話題にのぼれば “もしかして大阪公演後に日本の者から脅しを受ける事は無かったか?” と訊ねる人が多い。単刀直入に言って何事も無かった。 公演後ホテルで無事によく寝て、以後の公演にも何も支障が無かった。

 要するに、彼は純粋この上ない人だ。 権力とお金の味も彼の歌と舞台を揺さぶる事はできない。私は 大阪での‘独島は韓国の地’公演が即ちこのような点を確実にしたと思った。 (日本語訳:byおおきに2014.7.13)

【本文Part2-4】

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