1960〜70年代、劇場ショー全盛期の頃、活発に活動した司会者が多かった。 その中で特に若い羅勲児をはっきりと記憶している人が少なくない。 代表的な人物がシン・セイルだ。
彼は羅勲児とよしみが深い。 2005年羅勲児の世宗文化会館公演が終わった後、打ち上げパーティを一緒にした。 その年の最後の公演だった。
(おおきに注:2005年に世宗文化会館公演は無かった筈。2006年3月以前では2002年2月&10月に、又1998年は12月16日から18日に有ったがその年最後の公演では無い。年末はホテルでのディナーショーが定番になっているし・・ どこかに著者の思い違いが有るのではないだろうか。)
羅勲児はその日、早めに場所を移して
シンセイル、チェリボイ等と一緒に4名で水入らずの集まりを持った。
酒の席は翌日明け方4時まで続いた。
要するに、シンセイルと羅勲児は打ち上げの席と別に設ける程の格別の仲だった。
“即刻羅勲児歌って!”
シンセイルと羅勲児はデビューの頃から親しかった。
1970年代劇場ショーが人気を呼んでいた頃、シンセイルは所謂10大歌手達と共に
よく公演をした。
羅勲児、金サンジン、イヒョン、河春花、曹ミミ等に同行して1週間づつツアーに
行って来たりした。
羅勲児の人気が凄かったその頃、面白い事も多かった。
或る地域へ行っていたら、ポスターに羅勲児の顔写真と共に羅勲児という名前が
かなり大きく書いてあった。
羅勲児がそこでショーをするという話を聞いた事が無いのにと首をちょっと傾げた。
“変だ。羅勲児は降りて来なかったのに・・・・”
近寄って見ると羅勲児の顔と‘羅勲児’という文字の横に
小さく‘〜の友達だれそれ’と、その歌手の写真が名刺写真程に付いていた。
‘羅勲児の友達、誰それのショー’という事だった。
近頃の言葉で言うと‘釣’だった。
誰それを前面に出せば客は来ないようだから羅勲児をかなり大きく書いておいたみたいだ。
公演場では多分‘すぐ羅勲児歌って’という抗議が降りかかっただろう。
劇場ショーはラジオで生中継になって、すぐ売り切れるほど人気が有った。 しかし、高い人気に比べて歌手達に対する放送局の扱いはいい加減だった。 いくら天下のスターでもホテルの個室など考える事すら出来なかった。 羅勲児も例外では無かった。そのようにして仲間の芸人達と交わって全国で どんどん活動した。
シンセイルは当時の羅勲児を「無口で不愛想だが、しかし情が深い友達だった」と回顧した。 近頃とさして変わっていないようだ。シンセイルは羅勲児の奥深い情と関連して 特別なエピソードを一つ大事に持っている。
その日、羅勲児が仁川を発て無かった理由仁川公演での事だ。仁川は1960年代はソウルで活動する司会者達には 公演するのが最も難しい都市だった。それは交通の為だった。 司会者は普段11時30分までマイクを持っていなければならないので、個人車両が 無くなってから舞台を降りて家に帰ろうとする時、途方に暮れた。 全くの地方都市なら一晩寝て来るだろうが家を鼻先にして宿をとるのもどうかと。 つまり「遠い街、隣町」だった。
“舞台にちょっと早く上がって下さい” シンセイルが羅勲児と一緒に仁川の或る所で公演をしていた時だった。 早く羅勲児が舞台へ立ってくれるように、と係の人が頼みに来た。 人気歌手はちょっと遅めに立つようにするのが本当だがシンセイルは 頼みを聞きいれる為に羅勲児を9時30分に舞台へ上がらせた。 9時30分は最も早い時間だった。 9時に門を開けて30分ほど過ぎてから出入り口を閉めるからだ。 万一、お客が全部入って来る前に人気歌手が公演を済ませてしまっていたら 公演場としては不都合が起こるのだ。
その日、羅勲児は早めに公演をした後、外に出て行った。シンセイルはその後2時間余り司会を受け持って出て来たので、家に帰るのが困難だった。 もし羅勲児の思いやりが無かったら、旅館で寝て翌朝早く出発するしかなかった。
“こっちへいらっしゃい”
思いがけず羅勲児が待っているではないか。
とっくに公演をしたからソウルへ帰ろうと思っていたけれど、どうしても出発できなくて
遅くまで残ってシンセイルを待っていたのだ。羅勲児の情だった。
その日シンセイルは羅勲児の車に乗ってソウルへ帰って来た。
帰路にも忘れられないエピソードが又一つ有る。
羅勲児は途中で車を止めて運転手にビールを買って来るように頼んだ。
実は羅勲児は若い頃は酒を全然飲まなかった。
・・・彼のライバルである南珍も同じだった。スター二人とも酒とは縁が遠かった・・・
もっぱらシンセイルの為に酒を買ったのだ。
シンセイルは芸能界が認める酒徒だった。
シンセイルによれば、羅勲児は彼が酒をゴクゴク飲む様子を見ながらそう楽しくすることができなかったという。
こうして車の後ろの席に座って羅勲児は酒に付き合い、シンセイルは酒を飲みながらソウルまで帰って来た。
シンセイルは“慶尚道男の彼の深い情が羅勲児の魅力”と言い、彼が神秘主義にこだわっても手足の様に従って行くチング(友達)が常に居たわけ”だと説明した。
羅勲児の1級秘密“口外すれば終わり”
羅勲児の人間味と関連して隠れた話が多い。
その中には寄付に纏わった事もある。
ハ室長が亡くなる前、私にそっと耳打ちした話だ。
彼は企画社事務室が有る町に毎年巨額の寄付金を寄託した。
但し、条件が有った。‘万一、羅勲児がくれた金だという事実を報じたら即、寄付を終わらせる’
という事だった。私が知るかぎりでも羅勲児は今回の休息前まで毎年きちんきちんと寄付をした。
後輩歌手の病院費用を出した事も有った。
数千万ウォンを快く出して、病院に居た当事者もその金が誰の財布から出たのか知らない。
もしかしたらどこかの福祉家とか自分の隠れたファンが費用を出してくれたと思ったようだ。
この他にも善行を施した事が多い。
しかし、なにせしっかりと隠した為にマネジャーも知らない場合が多かった。
私はこのような式の寄付も彼の人間味が現れ出た例だと思う。
いずれにせよスターも結局は人だ。歌手と大衆も結局は人と人の関係だ。
情が厚く心使いが深いとあらば、誰もが判る筈だ。
選挙に出た政治家のようにいちいち握手して笑わなくても判る人は判るのだ。
早くに公演を済ませて出ても司会者が気に掛って先に出発できなかった
‘馬鹿みたいな男’羅勲児。
こんな具直な義理に人々がこれほど長い間羅勲児を‘故郷のヒョンニムやオッパ(兄さん)’のように思って
公演の度毎に訪ねて来るのだろう。
大邱の人々はあたかも故郷の兄の安否を尋ねる如くに私に尋ねるのだ。
“フナ兄さんはお元気になさってますか?公演はいつなさるんでしょうか?”
(日本語訳:byおおきに2014.8.5)