韓国の本【不朽の芸人・羅勲児】本文Part2−6

金芝美と羅勲児 1972年済州島

 シンセイルは羅勲児と関して最も意味深長な時間として 金芝美と一緒に居た6年を指摘する。あの時間の間に羅勲児が一人の人間として、 リーダーとして一段階アップグレイドしたようだというのだ。 当時、二人の結婚は文字通り大ニュースであった。 羅勲児と金芝美共にわけ有るスターであったが結婚後には潜跡した。 記者たちが夢中になって捜し歩いた。

 この期間羅勲児には多くの変化が有った。シンセイルは “真の男に成熟した時間だった”と言う。ある程度うなずける話だ。

金芝美が羅勲児と初めて会った日
羅勲児と金芝美の関係は1972年に始まっていた。 1972年4月9日済州市民会館で開かれた漢拏文化賞授賞式が契機だった。

 この時、羅勲児、崔喜ジュンを始めとして当代の人気歌手と映画人、 作曲家達が大挙して済州行き飛行機に乗った。公演は二回にわたって開かれた。 崔ソンイルとシンセイルの司会で昼間は済州市民会館で、 夕方には西帰浦サミル劇場で公演が開かれた。芸人達が総出動したので 済州島全体がざわつく程だった。 済州島でちょっとしゃれた若者全部が公演場へ集合したと云う程だった。

 当時は芸能人達の姿を見る事が非常に難しかった。 テレビジョン普及率がとても低く大概ラジオを通して芸人に接していた。 甚だしくは文珠蘭(おおきに注:太い声の女性歌手)のような場合は 田舎の人達の間で“男だ、女だ”と論争が起きたりもした。 或る音楽評論家は若い頃、羅勲児を‘ラウナ(LAUNA)’だと思って過ごしていた程だった。 近頃はテレビ画面で字幕を沢山出すので解らないと云うような事は無いようだ。 アナウンサーがはっきりと発音しても耳で聞くだけだと正確性に関係するからだ。 時には地方を巡回するショー団で外観が似ている歌手を立たせて “あの人が有名歌手誰それ”と紹介すればその通り騙されるほどだった。 今では高画質テレビの出現でそういう事は不可能なことになってしまったが・・・

 だから‘実物’の歌手を直に見る機会を済州島の“粋な”人達が見逃す訳が無かった。 西帰浦サミル劇場の前が全部花畑になったという笑い話もあった。 本当の花では無くてラッパ花(アサガオ)畑だ。当時、ラッパズボン(・・を履いた人)が それくらい沢山集まった事を風刺したのだ。 文字通り済州島は祝祭雰囲気で若い熱気で沸き返っていた。

 ところが皮肉にもこの日、最も熱かった‘若者’は済州島民では無かった。 島の人々がそれほど見たいと思っていた陸地から来た賓客だった。 済州島民の偶像金芝美がその主人公だった。 その日ーーここだけの話だが--“金芝美は羅勲児に惚れた”。 羅勲児が歌う姿を実際に見て自分の男にしてみることを心に抱いたのだ。 結果は見るまでも無かった。天下の金芝美に‘つつかれて’羅勲児が無視出来ただろうか。

 しかし金芝美はせっかちに急がなかった。 羅勲児が公演をする度に‘差し入れ’を送りそれとなく気持ちを伝えた。 私も羅勲児の公演場に金芝美が送ったチョコレートが来たのを見た事がある。 チョコレート1籠、程度だと思ったら金芝美のスケールをよく知らないと云う事だ。 私の記憶ではジープにおよそ一杯だった。 私は男が女を‘誘惑する’という言葉を信じていない。 女が惚れて男を屈服させるのだ。 男は蝶のように飛んで蜂のように刺す戦略を使うけれど動作がのろかったり 針がさえない場合はあまり悪あがきをしても‘虚しい針術’になるのがお決まりだ。 反面、女は蜘蛛のように男を‘捕獲’する。 蜘蛛の巣を張って置いて無心な蜂が飛んで来るまで待っている。 蜂は微動もしない蜘蛛をあざ笑うが一度引っかかったらお仕舞いだ。 金芝美はアジアの大スターらしいスケールで蜘蛛の巣を張ったのだ。

大田に蟄居した当時、今と状況がそっくりだ
このように金芝美は羅勲児に少しずつ近寄って行って 1976年にはとうとう結婚にゴールインした。

(おおきに注:羅勲児本人の言によれば戸籍上の結婚は丁水卿さんとの一回だけ。他は同棲のみ)

二人は新灘津で新婚世帯を構えた。新灘津には金芝美の工場が有った。 運営は妹の主人=チン・ソウマンが受け持っていた。
‘赤いマフラー’を歌った‘ジャニ・ブラドス’のリードシンガーだった。
広く知られているとおり‘赤いマフラー’は東南アジア及び日本にまで紹介された最初の韓国大衆歌謡だった。 ‘ジャニブラドス’は絶頂の人気を謳歌していたが1968年TBCTV‘ショーショーショー’でお別れ公演をした後解体した。

 以後チン・ソウマンは大田に下って来て事業に邁進した。 夫婦は新灘津で2,3年程暮らしたが某記者に見つかり、その後、大田へ下った。 金芝美は大田で高級レストランを運営していて羅勲児は舞台と完全に決別して 一人の女の夫として暮らした。 この時期羅勲児はゴルフも習ってJCクラブ会長を引き受けるなど、人との付き合い方を学んだようだ。 若い歳で地域の有志達と交わりながらリーダーとしての資質も慣らした。

 勿論、金芝美の影響が大きい。羅勲児は国内トップ歌手だったが金芝美はアジアのスターだった。 映画界の人達の話を聞いて見ると金芝美は特に初期の頃は画面に映るイメージとは違って カリスマが男性に劣らない女傑だった。 例え6年という短い結婚生活であっても、羅勲児はJC会長やら夫として妻の事業に関与して 金芝美のスケールを体得した様に思われる。

 蛇足ながら付け加えると、当時羅勲児の隠遁は今と類似した面が多かった。 記者達にだけ私生活を隠したのではなく音楽界は勿論友達とも完全に消息を絶って杜門不出だった。 違う点が有るとすれば住居地が国内か国外かの違いだけ。

 そして永久に歌謡界を去るように思えた彼がある瞬間ジャーンと現れた。 だから彼の引退に近い蟄居を大変な兆候や陰謀の為ではないと考えるわけだ。 ただ彼の気質に過ぎない可能性があるのだ。 1980年代にそうであったように、今も嘘のように私たちの前に又現れるように期待してみる。

ボスになって帰ってきた羅勲児
再び帰って来た羅勲児はボスになっていた。 その前は、ひどい言い方だが、情が深く熱情的な釜山の青年に過ぎなかった。 友達は“アジアの大スターである妻を持ったお陰でスケールがアジアを飲みこんでも余るくらいに成長した”と 口を揃えた。音楽的には盛りを過ぎたと云う遠慮ない言葉も出るくらい休止期が長くて 業界でもすぐに飛び付かない位に認知度低下を免れなかったが 彼は‘たかがそれくらいの事’克服するマインドを充分に備えていたのだ。

 カムバック以後羅勲児は‘伝説’の姿を本格的に備え始めた。 羅勲児の自己管理は歌手がどうすれば最高の席にロングラン出来るかを模範的に見せてくれる訳だ。

 まず彼は企業体の行事には一切行かなかった。 他の歌手達は出演料さえ釣り合えば企業体行事も厭わず駆けつけたが羅勲児は専ら‘大衆’に会う公演にだけ出た。 頻繁な出演は歌手の神秘感を失うと考えたからだ。 彼の言葉通り認知度がある歌手があちこちに出ていたなら結局価値が下がるのだ。

 もう一つは自己管理だ。歌手は勿論司会者達もやはり鉄則が有る。 いくら田舎へ行ってもみすぼらしい車に乗って行き来する事はいけない。 舞台公演者は生きている商品だ。体と言、立ち居振る舞い自体が商品の価格を決定する。 工場を運営する人なら物件だけ良ければ申し分ないが、我々は身体自体が物件だ。 職人が自己の物件を誠を尽くして作って手入れするように舞台に立つ人も常に自身をかばって管理しなければならない。

 言うまでもなく羅勲児は徹底した。もともと性格が人とベッタリ交わる事を好まない所も有ったが舞台に備える過程は常に一生の力作を残そうとする職人の様だった。 私の記憶の中の羅勲児は舞台に上がる前まで自分の舞台衣装を誰にも見せ無かった。 服を布で覆って運ぶのが基本だった。あるときは袖がちょっと外にはみ出していたので その日マネジャーは涙がなくなる程にお叱りを受けた。人々が先に衣服を見てしまったら舞台に対する神秘感が消えてしまうという理由からだった。 自分自身を最高の商品として残す為に徹底した管理をしたのだ。

 前にも言ったが劇場公演とコンサートは次元が違う。 羅勲児が劇場公演で慣らしたノウハウや力量をそのまま引いて来たなら世間の評価通り‘旬が過ぎた歌手’に終わったかもしれない。 しかし彼はスケールが違っていて人に対する水準もアップグレイドしていた。 韓国最高の単独コンサートを開くほどの力量或いは基本パターンを持って現れたのだ。 或る人は羅勲児が大田から出てくる時、“金芝美に全て与えて何か二つだけブラリと下げて出て来た”と言うので お金を全て与えた事は当てはまるけれど明らかに手ぶらではなかった。

 クリス神話で事物と季節の始まりを司る神はヤヌスだ。 ヤヌスは二つの顔を持っている。片方は過去を眺めて片方は前方を向いている。 即ち過去と未来を同時に眺めるのだ。まるで人生で新しい季節を始める時を象徴するようだ。

 羅勲児は全力を尽くして未来にジャンプしなければならない、まさにその時点で 出発の半分は金芝美との数年が残した色々な体験が責任を負っていただろう。 このように羅勲児人生の新しい扉が開けられていった。 そういえばヤヌスは又‘門の神’でもある。

 要するに羅勲児が‘情深い男’から本当のプロとして生まれかわった背景には金芝美の自己管理方が影響を与えたようだ。 羅勲児は金芝美と別れた後も誰かが彼女の名を無作法に言うと不快な表情をしたりした。 男女間と云うよりは昔の師匠に対する礼遇ではないかと思ってしまう程だった。 男女関係というものは奥の奥まで知ることは出来ないけれど・・・・・。 (日本語訳:byおおきに2014.8.20)

【本文Part2-7】

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