韓国の本【不朽の芸人・羅勲児】本文Part4−1

羅勲児、そして韓国‘コァンテ(芸人)’達の素性
 皮肉な事だが羅勲児が我々の傍にいる時よりも彼が席を離れた時、かえって彼の事をより一層考える様になった。 人々も皆彼の興行力に驚いただけで彼がどの様な存在なのかについては 特に悩まなかったようだ。

 羅勲児を思い乍ら判るようになったもっと他の事実は 羅勲児だけでなく我々を‘笑わせ泣かす’芸人達が全て我々が知っている事とは 全然違う存在であるという事実だ。 変わった言い方だが知っていても知らない、知らないけれど知っている事が彼らの素性だ。

 彼らに対して抱いている事はつまらない面々だ。 我々はそのどの時代よりも芸能人達の踊りや演技、歌声、そして色々な身辺雑記まで 詳細に知っている。 過去には名声が広がった或る人気芸能人ーー時にはコァンテーーを実際に見る事が 願いである時期も有った。 今はリモコンを手に持つだけで最高のスターに至るまで部屋で‘観察’出来る。

 だから寧ろ私達は彼らをよく知らない。 余りに近くにいるために、深く考える暇なく目が丸くなる才能と芸を繰り広げるに 従って何かに流した様にぼんやり彼らの演技を見るのだろう。何も考えずに。

 羅勲児の空白が寧ろーー羅勲児をはじめーー芸能界全般を見回す契機になってくれた。 じっくり考えてみると今まで出会って交流した‘コァンテ’達が皆自分の正体をあらわす きっかけを提供していた。

 簡潔に言えば、彼らの根は思ったより深かった。彼らの芸能は私達が考える以上に 歴史的淵源が深いという話だ。私はこんにちのコァンテ達が18世紀に ‘朝鮮を泣かせ笑わせた’パンソリを始めそれ以前の音楽にまで根が届くと信じる。

(おおきに注:タンタラに関して約2頁省略)

羅勲児“私はアリランソリ君”
 伝統的な流れを意識的に継承している大衆歌手が羅勲児だ。 彼は或るインタビューで“私をアリランソリ君と呼んでください” と言った。彼の‘音楽感’を最もはっきりと表した言葉だ。

 まず発声法を見よう。羅勲児は自分の歌の根が民謡にあると主張した。 羅勲児式唱法は民謡から出た。 彼が言うように、1978年オアシスレコード社で録音した彼の民謡音盤を聞いてみれば 確かに民謡歌手だ。 喉を引き締めた、解いた、にわかに落とした、叩きつける技量が伝統民謡ソリ君以上だ。

 単に羅勲児の場合だけでなく我が国の歌謡の根自体を民謡と見る向きも多い。 我が国の歌手達の発声法は西欧や日本とは違う独特な面が有るので、その根底を民謡から探すらしい。

 教育現場の音楽教師達は子供達が声楽発声より民謡唱法を遥かに早く習うと言う。 これは民謡と歌謡の唱法が大きく変わらないことを示唆する。 グループ2PMの朴ジェポムの様なアメリカ産韓国人ならわからないけれど 韓国で育った歌手なら皆唱法と情緒の根が民謡に接しているのだ。

 歌を歌う方式だけでなく内容も重要だ。 民謡は人々の暮らしを如実に表すジャンルだった。辞典では民謡をこのように定義する。

‘民謡とは民衆の中で歌われた伝統的な歌をひっくるめて言う言葉で
民衆の思想、生活、感情を盛り込んでいる’
ーネイバー百科事典よりー

 羅勲児の歌が即ちそうだ。彼が歌う故郷、愛、懐かしさと云うのは、民謡が必ず込めている‘民衆の思想、生活、感情’だ。 古今を問わず、どの歌に人生が盛られたのかではなく、 大衆の呼応と云う尺度をもって論じたら、そのどの民謡よりも深くて広いファン層を確保している。

(おおきに注:以下約17頁和訳省略)

 羅勲児はやはり伝統の脈を最も確実に受け継いでいる歌手だ。 韓服を着てプクの調子に合わせて歌を歌うからではないが 彼の公演を見ていたら‘パン’と‘ソリ’が調和した朝鮮名唱法の舞台が浮かぶ様だ。

 他の歌手と比較する時、グンと秀でた点は伝統の脈を意識して歌を歌う事だ。 前に言及したように彼は自分を‘ソリ君’とよんでくれと言い、歌謡を‘アリラン’と呼ぼうと提案した。 自身の正体性を正確にわかっていたというわけだ。

 孟子は人を普通の人とリーダーを別けてこの様な説明を付けた。

“どの様な事を行いながらも
なぜその様にしなければならないのか理解していない
その様な事に慣れていてもその理由を解っていない
一生の内その事を追いながらも
道理を知らないのが普通の人々なのだ”
ー<孟子 >本心 上ー

 羅勲児は自身の一生の内、追う道が何であるか明白に認識していた。
歩いてみるとその道へ入るようになってそれでいて自己がどんな道を歩いているのか自覚出来ない歌手達とは全く違う精神的態度を見せた。 従って彼が我らの‘コァンテ’達の頭(かしら)になるに値すると思うのだ。 単純にチケットがよく売れるからではない。

 彼の帰還を待つ理由も変わらない。 意味を解ってどの仕事をすれば達成が遥かに大きい。 目的と方法が確実な勉強をする事と同じだ。 熱心にはするのに成績が上がらない学生は目標がはっきりしていなかったり 学習方法に対する問題がある場合が大部分だ。

 羅勲児は自身の正体性をわかって粘り強く所期の成果を達成してきた。 我々は彼を再び注目するベキだ。 彼に我々の過去と共に未来を発見することが出来るからだ。

(おおきに注:以下2頁和訳省略)

(日本語訳:byおおきに2014.9.14)

【本文Part4-2】

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