韓国の本【不朽の芸人・羅勲児】本文Part4−2

‘不朽’の羅勲児

 昔の歌を再び歌う熱風が盛んだ。否、‘名曲’再び歌うだ。 昔の歌と言う事自体が時代錯誤的な言葉になる雰囲気だ。 その通り。永い歳月を乗り越えて依然として魅力を誇る曲達なら当然‘名曲’と呼ぶべきだ。

流行歌を名曲にする自信感

 隔世の感を感じる。ちょっと前、日本の高官が‘韓国の民度’を云々したが 我国の人々の激しい抗議を受けた。日帝式の考え方だ。事実数十年前なら 我々自ら‘葉銭はどうしようもない’という話をよくした。‘韓国人はやっぱりダメだ’という意味だった。

 日帝強占期が始まった頃、葉銭は交換価値を殆ど喪失した。 だから葉銭は‘無価値な物’だった。そして日帝強占期中ずっと葉銭がどうだという言葉は韓国人と韓国を一気に卑下する表現だった。

 歳月が多くの事を替えた。経済と文化、あらゆる部分で過去とは全然違った現象を持つようになった。
6.25の弊端後、上からドイツに鉱夫と看護師を送って受ける借款で経済開発を始め息苦しく走ってきた。 あれこれ話が多いが春になれば飢え死にする人が出る程に窮乏した過去と比較すれば確実に暮らしはよくなった。

 大衆文化は言うまでもない。我らのドラマと歌謡がアジアを覆うことは勿論アメリカ ビルボードでも注目する興行成果を続々出している。今や韓国発文化熱風が大勢力で吹き迫る格好だ。
その間、‘葉銭は出来ない’と云う言葉は日常から歴史本の中に追い出された。 今若い人達は注釈を詳しく付けてやっとこれがどんな意味だかわかる。
“我々が自らそのように卑下したなんて、こんな慣用句が有ったなんて”と驚く人を見たことも有る。 葉銭という単語が占めている自己卑下と否定の心理は肯定と自信感に置き換えられた。

野の花のように咲いていた私達の名曲

 我ら‘名曲’は野の花の様に風がぴゅうぴゅう吹く丘で花を咲かせた。 その時節にも若い層だけがスター歌手に熱狂しただけで年配の人達は ‘タンタラ’だとヒソヒソと言うのが常であった。
もし自分の子供が歌手になろうとしたら足をぶん殴られそうな脅しは普通だった。歌謡界も不毛だった。 今は歌一曲ヒットすれば著作権料のおかげで作詞作曲家達が食べる道が開けるが、 その頃は若干のスター作曲家以外は全て冷遇だった。芸能人達の暮らしも貧しかった。 一途に舞台が好きで歌が好きでそこにしがみ付いて居るだけだった。

 だから、そうだったからか彼らの歌はいつしか下に、下に向かった。 民衆達と一緒に泣き笑いながら心を撫でた。
‘哀愁の小夜曲’‘木浦の涙’‘頑張れクムスン’‘友情千里’‘朝の露’まで、 厳しい我等歴史と一緒だった。

 羅勲児もこのような歌手だった。羅勲児が南珍とライバル対決を繰り広げていたその頃、 彼は只一人故郷の歌を沢山歌った。‘遥かな故郷’‘故郷のあの人’‘水車は廻るのに’ など。どれ一つとして故郷の風景が映し出されていない曲は無い。 その中でも最も代表的な歌は‘故郷の駅’だ。
産業化が拍車をかけた頃でソウルと地方の大都市には故郷を離れて来た若者で 溢れていた。彼らに故郷の風景はホームシックを慰める唯一の手段だった。
その頃、秋夕と旧正月になれば駅とバス停留場には帰郷の人波で溢れた。 夜を明かし予約をして汽車を待った。
両手いっぱい荷物を持ったまま蒸し器のような列車とバスに乗って何時間も 走ったが大変だと思わなかった。
故郷で‘この身を’待って居る父母と友を思えば数日をこのように割いても気分が良い様だった。 ‘可愛い娘、綺麗な娘’が待っていて、‘母が白髪をなびかせながら走ってくる故郷’ に行くのだから一日二日の苦労ぐらいは何でも無かった。
我々がその様に故郷を懐かしむ訳はパサパサした一生のせいだ。 懐かしさの重みは即、暮しと労働の重みだった。 その重みを少しでも減らし、いつか帰る家があるという事はどれほど大きな慰めと希望であったことか。

羅勲児の名曲を、羅勲児を待ちながら

 名曲は単に良い歌では無い。フランス革命の歴史的事件と民衆の汗と涙と願いが混ぜ合わされた‘レミゼラブル’のように我等歴史と暮らしがその中に投影されている。 故郷、懐かしさ、田舎の風景が込められた歌を産業化時期故郷を離れ、日々アクセクと生きた人達の悔恨と涙が染み込んだ最も真実な歴史なのだ。

 我々は慰められる資格が有る。それ程頑張って来た。 ‘つらいから青春’である今の世代も充分に健気に勝ち抜いているけれど、 貧しい故郷を離れて慣れなくて見知らぬ都会で未来を開拓していた1970〜80年代の青春は 本当に一生懸命に生きた。

 羅勲児が1970〜80年代を代表する歌手だったなら、 その頃を力強く生きた人達に最も慰めになる歌手は正に彼であったのだ。
蛇足ながら、彼の慰めは歳月が経てば経つほどより深くなった。
或る人は言うのだ。
“20代の頃の羅勲児の歌声を聞いていたら羅勲児でない様な感じを受けた。”
と。羅勲児の唱法が少しづつ変わったという事を知る人は多いが 歌声に滲む真情性もだんだん深まっていった事は知らない人が多い。
 流れる世の中を渡るのが難しいのではない。 昔は‘峠を越え又峠’の様に大変だったが今の大韓民国は‘山越え又山’だ。 羅勲児と云うとても大きい慰めの歌が必要な時だ。 これが今も多くの国民が羅勲児の名曲を聞いて彼の帰還を待っている理由だ。

 羅勲児が帰ってきたら既成世代にはヒーリングの時間になり、 若い世代には先輩も自分達と同じように辛かったという事実を知るきっかけになるのだ。
我々は今日も心の故郷の駅に載せて行く羅勲児の銘品公演を切実に待つ。 我らの懐かしさが生きている偉大な彼はいつまでも現役だ。 いくら時間が経っても彼は我々には不朽の歌手だ。

(日本語訳:byおおきに2014.9.21)

【本文Part4-3】

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