韓国の本【不朽の芸人・羅勲児】履歴−1

1947年 出生、幼い時から既に・・・

 本名はチェホンギ(崔弘基)。1947年2月11日釜山で生まれた。
彼の父親は外航船に乗って貿易業をしていたから釜山でも知られた有志だった。
幼い時から音楽に関心が高く初等学校高学年の時に既に地域のど自慢で 二年連続して大賞を取ったと知られている。

1966年デビュー‘千里道’

 中学校を卒業した後、兄と一緒にソウルへ上京して遊学生活を始めた。 高等学校2学年頃から音楽と本格的な因縁を繋いだ。
有名な作曲家シム・ヒョンソプ(沈亨燮)氏が運営する音楽学園で一度だけ入って歌を習ったのだが、 沈作曲家の推薦でデビューの機会を得た。 沈作曲家が平素から親しいオアシスレコード社のソン・ジンソク(孫晋?)社長に羅勲児を紹介したのだ。
羅勲児はオーディションを通過し金英光が作曲した‘愛は泪の種’と‘千里道’等を録音して、 この中の‘千里道’をまず発表した。

‘南珍VS羅勲’になるところだった

 デビューの時に芸名を付けた。はじめはペ・ホ(「湖)、ナム・ジン(南珍)の様に名前の部分を一字でナ・フン(羅勲)とした。
ところがいざ付けてみると人が彼を呼ぶ度に最後に‘ア’を付けた。仕方無く‘ア’を芸名に付け足した。 要するに南珍VS羅勲のライバル構図が‘南珍VS羅勲児’に取り変わったのだ。

1968年‘愛は泪の種’

 ‘千里道’はヒットしたが難関にぶつかった。 盗作論争がある為に禁止曲になってしまった、と。 孫社長は二番目のカードを投げた。‘愛は泪の種’。 やはり、泪の熱風が全国を吹きまくった。

1969年‘イムグリオ’、1970年‘カジマオ’

 トロット界には面白い‘階級区分’が有る。 ヒット曲が一曲か、二曲か、三曲か、によって歌手の人生が決定されるのだ。 少なくとも三曲になれば‘生涯スター’の座を掴んだと判断する。 羅勲児はデビュー曲と後続曲に続いて‘イムグリオ’、‘カジマオ’等の曲で続け様に 大型ヒットを記録した。瞬く間に‘生涯スター’としての座を掴んだ。

“もし過去1960年代と1970年代の我が国歌謡界で
オーバーナイトサクセス(突然の成功事例)を掴んだ歌手を一名だけ
指摘するとしたら私はためらい無く羅勲児と言う。”
==崔・ソンイル(劇場ショー時代の有名MC兼コメデイアン)==

1971年7月、世紀の対決始まる

 韓国MBCTV番組で、似通った年代の二人の青春スターを同じ席に招待して 歌を取り替えて歌わせた。プログラムタイトルは‘五色の花園’
南珍、羅勲児ライバル戦の本格的な始まりを知らせる舞台であった。

1971年南珍が勝、1972年羅勲児が勝

 1971年9月16日から4日間、南珍がまずリサイタル公演を開いた。完売。
羅勲児は10月始めにリサイタルを開いたが成績は南珍に負けた。
1972年には羅勲児が先に弓弦を引いた。2月に市民会館でリサイタルを開いた。 南珍も3月に同じ場所でリサイタルを開いた。結果は5万対3万。羅勲児の勝利だった。

1971年‘恋は戯れではありません’

 チョ・ミミ(゙美々)と混声デュエットで歌った。 1965年 ‘遠く離れた木浦港’でデビューしだ美々は1969年‘女の夢’がヒットして大衆に名を知られた。
‘海が陸地なら’ ‘遠くから来られたお客様’ ‘山百合の乙女’などのヒット曲で70年代を風靡した。 ゙美々はオアシスレコード専属歌手だった。

(日本語訳:byおおきに2014.10.2)

【履歴-2】

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