この曲は作詞家 鄭斗守の故郷である慶尚南道河東郡古田面城坪里が背景だ。
実際には歌の言葉はソウルの或る喫茶店で水槽の中の水車を見てヒントを得たのだが
書く間ずっと故郷を思い浮かべたと言う。歌の中の便りがない主人公は日帝強占期に
戦地に引っぱられたが亡骸で帰って来た叔父であった。
鄭斗守は1963年チンソンナムが歌ったヒット曲‘徳寿宮石畳道’を契機に地球レコードの専属作詞家になった。
‘黒山島娘’(李美子)、‘カスマプゲ’(南珍)、‘空港の別れ’(文珠蘭)などが彼の作品だ。
蛇足ながら鄭斗守は羅勲児に‘牛泥棒’と云うあだ名を付けた張本人だ。
市民会館で開かれていた‘ショースターフェスティバル’二日目の公演があった日だった。 羅勲児は‘寂しい喫茶店’を歌っていた。その時、怪漢が彼を襲撃した。
羅勲児は割れたサイダー瓶で顔が裂かれて頬を70針も縫った。
羅勲児の証言によれば照明が自分側を照らしていた為に防ぐのが難しく、
舞台関係者達も最初は賊の手に持たれていた凶器が見えなかった。
スタッフ達が迅速に対処出来なかった為に事態が大きくなったのだった。
事件を起こした金ウンチョルは警察の調べに‘南珍が唆した’などと
チンプンカンプンなことを言ったが南珍とは無関係な事とあきらかになった。
以後の話を付け加えるなら、賊は1974年再びマスコミに登場した。
この時は南珍に絡み付いてお金をせびり取って捕まった。2年前の事件が
南珍の指図でやった事だという噂を吹聴すると脅迫して、南珍側は8万ウォンを与えた。
1976年には舞台で南珍に暴行した。
これで終わりではなかった。1980年、南珍の故郷、木浦の家に火を付けた。 この賊が引き起こす色々な事件が南珍と羅勲児のイメージを少なからず 傷つけている事はいう必要も無い。
1972年‘故郷の駅’ 襲撃事件後隠されていた同居女性が有るなどの噂が立った。このために引退説が出たりもした。
しかしすぐその年にこんな雰囲気をひっくり返す曲が登場した。‘故郷の駅’
羅勲児が歌う故郷の歌の代表曲と言っても過言では無い。
彼は此の曲で醜聞を踏んで再び頂上を奪還した。
‘故郷の駅’はリメイク曲だった。1970年3月に発表した‘車窓に幼い姿’が原曲だった。
作曲者は当時無名だった林鍾寿で、3ヶ月待った末に羅勲児のアルバムに曲を載せる事ができた。
しかし歌詞が不健全という理由で放送禁止判定を受けた。
2年後羅勲児は作曲者に歌詞とリズムの一部を修正してくれる様に頼んで再び録音した。
秋夕の頃、全国至る所に羅勲児の歌が響き渡った。
産業化に連れて工場と商店がある都市へ出てきて苦労した人達の心琴に触れる名曲だった。
羅勲児の故郷シリーズ
1970年1972年8月、‘羅勲児作曲集’
8月に羅勲児はハ・チュナ(河春花)とコンビを組んで一枚のレコードを出した。
特記すべき点は羅勲児が作曲した曲で埋めた点だ。
名付けて‘羅勲児作曲集’
評論家達の間では大きく評価されなかったが、此の音盤は以後羅勲児がシンガーソングライターとして
変身する事を示唆していたという点で大きな意味がある。
と共に、当時‘歌手は歌う人’と限定する傾向があったが、
羅勲児が最初に作曲する歌手として出たという点で歌謡史全体的にも意味が有る。
(日本語訳:byおおきに2014.10.11)