韓国の本【不朽の芸人・羅勲児】履歴−3

1973年3月‘羅勲児 除名’
 1973年3月羅勲児は除名措置に当面した。 歌手協会から?そうでは無い。映画人協会だった。
名目は‘映画界に非協調的’という事だったが内部事情は違った。 映画全盛期が終わってテレビの普及でドラマが中心部に殴り込んで来た。 映画人達は除名措置をした前年(1972年)映画俳優のスクリーン進出と タレントの映画出演を区切る処置を取った。 この様な雰囲気で本業が歌手である羅勲児の映画出演は 目を開けて見るのが難しい悲惨な事だったのだ。

 羅勲児は1971年6月‘うたかたの恋’でデビューし俳優としても全盛期を謳歌していた。 当時トップ映画俳優のユンジョンヒの出演料が40万ウォンだった時、羅勲児は20万ウォンだった。

 だが値段は彼の俳優としての価値を証明するだけで、 彼の収入にはそれ程役立たなかった。
当時羅勲児の舞台出演料が一日20万ウォンだった。
映画一本を撮るのに最低10日から15日掛かった。 計算上は明らかに損害だった。けれども映画俳優として顔を出す事はファンを確保する為であった。
南珍も同様だった。彼らの為に出演機会を奪われた映画俳優達にとっては呆れた話だっただろうけれども 南珍と羅勲児はひたすら競争に勝つが為に出演競争をしていたわけだ。
だが除名措置は永く続かなかった。映画人協会はその年の11月に‘行事に漏れなく参加する’と云う 文書を受けて除名措置をとかされた。
*参考:毎日経済1973年12月3日付記事朴ソンソの大衆音楽評論

1975年羅勲児が空軍に入隊した理由
 羅勲児が空軍に入隊した。7月5日だった。マスコミはこれを全く知らなかった。 彼のマネージャーであった姜チャンホ氏が7月7日に某製菓店で記者会見をした。 彼は羅勲児が空軍に入隊した理由を“陸軍と海兵隊には既に多くの芸能人が行っていたが 空軍にはいなかったため”と明かした。
面白い事には、このころ、第二の羅勲児を標榜した歌手達が大挙出てきたという事実。
‘地上で生きよう’のホンセミン(洪世旻)、‘山鳩’のハンセイル、
‘おわかりでしょう’のハングギル、‘愛も歳月が経てば’の朴ウチョル、
‘栄光の道’の羅カンイル、‘スナ’の金チソン、そして金ヨンジュン、ハギルなど10余名に及んだ。
この人達全てが羅勲児と似た唱法を駆使した。
当時の新聞はこれらの人達が元の歌手の空席を埋めようというしっかりした覚悟をしていたと伝えた。
*参考:‘サンデーソウル’1973年7月15日付記事

1975年までに500
羅勲児がデビュー後入隊までに発表した歌の数は? ソウル新聞での分析では500曲だった。

1976年7月9日結婚発表
 羅勲児が結婚を発表した。相手はアジアのスター金芝美。
Twoトップスターの結婚に長安(おおきに注:ソウルの別称)が湧き立った。
二人の結婚生活は6年間続いていたが1981年に終わりになった。
ところが訣別所感がもっと話題になった。
“過去の不和説が噂になった為に別れた。”
別れた後も金芝美は羅勲児を悪く言わないと明らかにされた。 彼女は“羅勲児ほど男らしい人は無かった。年の差がかなりあったが夫として頼れる男だった”と言ったと伝えられている。

(日本語訳:byおおきに2014.10.20)

【履歴-4】

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