羅 勲 児 VS 金 重 培 二人はどんな人?
私が選んで作る私 VS 私を削って作る私

韓国の本「사람 VS 사람」(本の表紙はこちら)
第十一章 219頁12行目から221頁4行目まで

'休止期'に成し遂げた自己決定の哲学

 しかし、羅勲児が‘自己決定権’の重要性とそれに対する具体的な方法論を悟った事は、何よりも充分な‘休止期’を持った特別な彼の芸能経歴と密接な関連が有ると云うのが私の考えだ。

 便宜上、羅勲児の芸能生活経歴を三つの部分に分けてみるとこうだ。

 最初はデビューから空軍服務前の26歳まで。

 二つ目は軍服務三年とその後6年の休止期で、26歳から35歳までの時期。

 三つ目は30代中盤に芸能界カムバック後現在(2006年とみる)までの20余年の歳月だ。

 (おおきに注:付け足せば、四つ目が、2007年から2014年現在に至るまでの休止期、となる)

 羅勲児は10代後半に民謡の唱法をパターンとした独特の唱法で[愛は泪のたね][カジマオ]等を歌って空前のヒットを記録した後、7年間余りの間、歌手として絶頂の人気を実感した。

 彼の言葉を借りれば“若い時だから聴衆の拍手を聞けば身体がポーンと浮かぶ感じになってその妙味に正気でなくて舞台毎に歌って回って歌を歌っていた”頃だった。

 南珍と歌謡界を両分して我が国最初のファンクラブ誕生等、新しい歌謡神話を創造していた羅勲児は1974年、少し遅い年令に空軍へ入隊した。軍服務中1年半くらいはトラックを仮設舞台にして歌を歌って慰問団活動をしてはいたが実質的に羅勲児は軍入隊を契機に絶頂の人気を後にしたのだ。

 1976年6月、3年間の軍服務を終えた羅勲児は個人的な理由で歌手活動を中断した。特別な引退公演とか記者会見は無かったけれど、それから6年間、羅勲児はいっさいの芸能活動を中断したまま、地方の或る都市(おおきに注:同棲相手の大女優、金芝美さんの実家が有る大田)で事業だけに専念した。

 事業に対する彼の執着とか未練は特別な意味を持っているようだから、もう一度言及しよう。

 私が個人的に‘休止期’と呼ぶこの時期に羅勲児は多くの事を感じて悟りを開いたようだ。軍服務を合わせてもこの10余年の歳月だけれども、特に30代初盤から中盤までの6年間、羅勲児は‘スター羅勲児’という束縛を脱ぎ棄てて、もう少し客観的で余裕有る心で世の中を観察し始めた。自身が足を深く浸していた世界から完全に抜け出た観戦者の立場で他の芸能人達の活動を客観的に注意深く見廻しながら、ゆったりした気分でギターを覚え、本を読む、等、‘人間 崔弘基(羅勲児の本名)’として内功を積むことに力を注いだ。

 せっかちで直線的な自身の性格を‘気’が短い事だと自己診断した羅勲児は、気が長くなる一つの方法として東洋画や習字を並行して習ったりもした。

 後日、或る雑誌で、羅勲児はこの時期を回顧して‘もし、この期間が無かったら人間的にこの程度の深さを持って無かっただろう’と言っている。大衆芸術家として彼の独得な感受性もこの時期に本格的な土壌が形成されたようにみえる。

 羅勲児は全部で200枚余りのアルバムに2600曲余りの曲を出していて、その内、800曲余りを自分が作詞作曲するほど卓越したシンガーソングライターで、自作曲の大部分は彼が休止期を経て歌謡界へカムバックしてから発表した曲だ。

(日本語訳:byおおきに2010.3.22)
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