名誉の殿堂(歌手部門)インタビュー

(IE4以降)

(10)「金芝美は私を大人にした女」

黒字:記者】さきほどスキャンダルの話をなさったのですが、羅勲児さんは金芝美さんと1973年(ナフナ、26歳の時)から、約8年間、一緒に暮らしていらっしゃったのですが・・・・。
--この言葉が出るや、彼は困ったような顔色になりながら、「アァー」と長い溜息をついた。とても答えに困る場面に出会ったようだった。しかし、しばらく後、落ち着いた答えが返ってきた--

緑字:羅勲児】私はあの時、あの女性と会って今日の私がここにあるのだと思います。

今日の羅勲児が金芝美のお陰?

いや、「恩恵」とはちょっと意味が違いますね。その当時一緒に居て、私は本当に感じることが多かったです。

どんなことを?

あぁ、私がもっと勉強しようという思い・・・・

なぜ?

私より年上だから(7歳年上)、まず、知っていることが多かったのです。だから、私がもっと沢山知って、人格的に良くなろうと、すごく思いましたね。
今思えば、あの当時のあの歳月がどんな歳月であったのか・・・・・理解することが出来ない歳月でした。
私が生きた人生を思い返してみるとあの女性がとても並外れている世界のようです。
良い悪いは問う事はできないけれども・・・・・

どういう意味で?

ひょっとすると、あの歳月は最も重要で有りながら、一方、穴が空いた歳月ではなかったかという思いになります。

その期間は、歌を歌わなかったのでは?

本当に重要なことは私が歌を歌うことを嫌がったということです。歌うことが厭でした。他の人が聞けば理解できなくて、わからないでしょうけれど、もし私が生まれ変わったら、歌は死んでもやりません。

歌が有り難いのではありませんか。羅勲児をぐっと立てている5千万、7千万の同胞が皆、愛して・・・・・・

それを私が満足しないといけないのに私はこの仕事が嫌いです。それが為に、私の中から抜け出てきて自分を見ることが出来るという事です。万一、私が人気の中に溺れていたら、私の管理が出来ません。歌が好きで、夢中に歌を歌えばその中に溺れてしまいます。自分がうまく歌うのか、歌えないのかもわからない。

それでは、あの時、歌が厭でやめていたのですか?

あの当時は「ああ、今,歌はいやだ!」こう、思いましたね。

それでは、どのように暮しておられたのですか?

私はビジネスが好きでした。デジョンで「草原」という食堂をしていたので、朝、早起きして仕事着を着て、さっさと、そのようにしていました。私はそんな事が好きです。私のスタイルがそれです。

そこで学んだことは?

ビジネスマインドを学びましたね。私は今も歌を歌っていても、並外れてビジネスマインドを持っています。

二人が出会うまでは、勿論その間に軍隊(空軍)へも行って来ましたけれど、およそ7年羅勲児さんが歌を歌ってお金を沢山儲けたことになりますが、そのお金はどうしましたか?

全部持って行って一緒に合わせましたよ。

我々はその時、婚期の過ぎた独身男性がポンチャバッタ(訳者注:直訳は「棒を掴んだ」しくじったの意か?)と思ったものですから

全く誤って思われていました。私が仮に、自叙伝を書いたとしたらこの話を詳しく書くことが出来るのです。

今、自叙伝を一度書いてみられませんか?

うそをつく自信が無いので書けません。私が嘘を言っても真実を言っても人々が「そうか、老いぼれたのか、ちょっと見逃すかね」この様な時になって書きます。

では、今、この様な生活を整理しなければという思いはどのようにしてなりましたか?

8年間、ほとんど毎日、私達の家の前に、記者達が望遠レンズを向けて待機していました。二人は俎板の上に乗って居るようでした。
そうするうちに、見ると、生活すること自体、衣服をうまく着れない事のように難しかった。始めの2、3年は合わない衣服も不便を感じなかったが、暮している内、欠点も見えたから、良かった事が良くない事に代わったのです。
何やかやで、くたびれ疲れました。皆、過ぎたことなのに、しょっちゅう突いて新聞に載っているのだから、とても不便でした。互いに目に見えないストレスが重なってきたのです。

--そこで、彼(羅勲児)はこのような結論を出した--

「この女性は私の人生に必要だった女性ではなかったと思う」
その時まで、平坦大路を歩いてきた私は、その事が有ってから、がらっと、あちこちが滅茶苦茶になって、全てのことが難しくなったのです。このようなことを経験して私が大人になったのです。だから、あの人が私を大人にしてくれたということです。

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