名誉の殿堂(歌手部門)インタビュー

(IE4以降)

(6)「ペン、トラボリン(訳者注:直訳は、くるっとかえってしまった、で、意味不明) レコード会社社長」

黒字:記者】歌手になろうという考えはいつ頃思いましたか?

緑字:羅勲児】事実私はとても簡単に歌手になったのです。歌手になる為に苦労した時間は一時間にもならないからです。

実におかしいですね!!現在はこんなに多くの努力をしているのに!!

その頃私はクラシック声楽家になりたかったのです。ところがその話を持ち出すと父からひどく叱られて言い出すことも出来なかったのです。
父は私に弁護士か医者になれと言いました。それは私が兄弟の中で勉強が少し出来たからです。だから父は私に期待が大きかったのです。
ところが私がいきなり歌を始めたから父が頭から否定したのです。

そうですか。どのようにして歌手になられましたか?

父は知らなかったのです。1965年、高等学校2年の時、作曲家、シムヒョンソプさんが学校の直ぐ横チョンルンで音楽学院を開いていらっしゃいました。
♪♪ムロムロチャジャワソクニミケーシヌンゴセ♪♪「ニムグリウォ」を作曲された方です。
その学院に友達について遊びに通いましたが、ここに行って私が時々歌を歌いました。
その方(シムヒョンソプさん)は私には話さなかったが相当に関心を持っておられたようです。後になってその方から聞いた話ですがとても上手いと思ったそうです。
で、その方がオアシスレコードのソンチンソク社長と親しくされていてそれで話をしたそうです。
「子供が一人いるのだが、これがとてもやるんだ。掘り出し物になる様だ」「知らない振りをして一度見に来いというのか?」と、なったそうです。
言ってみれば見合いをしにくるみたいではないですか。私はそれも知らず、そこへ遊びに行こうと思って行きました。行くとその方(シムヒョンソプさん)が「一度歌ってみるか?」と、こうです。
「おやっ、いいぞ!」何の気なしに何曲か歌いました。そうして後ろを見ると、年配の方達が、2,3人座って居られました。その時、当時流行した「ラノビア」も歌いました。
そうしたら、ソン社長が私の歌を聞き、流行語で「ペン、ペントラボリン、顔つきも眉毛も真っ黒の奴、おぉ、歌が、クギアニンギラ!」(訳者注:赤字カタカナ部分訳できず)
それこそ当然でしょう。私はその頃、学校で発声練習をすごくしていたのですから。基本は幼い時から出来ていたのですからね。事実、今も2,3時間、一人で公演をしても潰れてしまうことが無いのは基本が出来ているからです。
そんなことがあってから、ある日、ソン社長から「一度吹き込みをしてみないか?」という話が来ました。他の人達にはここまで来るのが大変な事です。ところが私は何一つ苦労も考えも無く、ここまで来たのです。
当時、LPの中に一曲吹き込んで盤(レコード)を出すのに、6万ウォン払わなければならなかったのです。当時の国民の住宅が20万ウォンの時ですから、どのくらい大きな額か考えてみてください。ところが私にはお金も何も、ご飯も食べさせてくれながら、ただで出してくれたのでした。

それで無料で吹き込みをしましたか?

そうです。「吹き込もう」と言って「それじゃ、まぁやってみて!」というようなことです。
キムヨングァン(金英光)氏が作曲した「愛は泪のたね」それから「千里道」この様な曲を含めて私の曲を受け取ったのですが、練習もろくろくせず、マジャンドウという録音室で録音しました。
当時はまだ、機械に2チャンネルしか無くて、歌った曲が一箇所でも間違っていたら、始めから再びやり直さなければならなかったのです。それで、私の曲を吹き込みしようとすれば丸一日掛かること事もありました。
ところが、私は一度練習をして吹き込み、又、一度練習をして吹き込みして。この様に一度も間違わずに6分づつ吹き込みましたから、4×6=24に前後に何分か足してきっちり30分だけで終わらせて出てきてしまいました。それだから、大人達が「よくやった!」とチャジャン麺とタンスユク(訳者注:糖水肉、酢豚)を奢ってくれて思う存分食べましたよ。

--大金に、パブリックカーに!--
契約書は書きましたか?

契約書も口約束も有りませんでした。私がお金を渡さなければならないのか、受け取るべきかも判らず、レコードを出したのです。

その次から計算が複雑だったでしょうね。これが大変だったですね。

大変なことでしたよ。その次からは会社へ行けば大金をくれるのです。退屈だから会社へ立ち寄ればソン社長が50万ウォン、100万ウォンと、くれて・・・・。そうこうしていたら、パブリックカーというのも一台買ってくれたのですよ。

学校は?

3年生になったので学校も全く行かなくなりました。これ(歌)に忙しくなってしまいましたから

レコードを出してから放送社によろしく頼むと外交もしなければというはずですが、そんな事もしましたか?

ところが、これが逆になったんだ。ラジオのほうから先に、出てくれ、と騒動だ。私が行く前に、ラジオからどーっと流れ出てしまったんだ。

又、大変でしたね、御両親にばれるでしょうに。

だが、私の祖母と母はそれを私だとは判らない。何故なら、名前が「ナフナ」だから。父は外国に行っているし・・

初めにヒットしたのはどんな曲だったのですか?

「千里道」でした。オアシスからいろんな人が出すLPに私の「千里道」一曲を入れて出しました。そのようなやり方で「愛は泪のたね」「ニムグリウォ」「約束」を順々に出しました。1曲に6万ウォンづつお金を出して何人もで一枚を出すのだから、お金を出さず無賃乗車した私の歌を一曲づつ組み入れた為、そうなったのです。

--ナフナのデビューで高校生「崔弘基」が暮らし向きが良くなっただけでなく、オアシスも運が開けた--

事実、その時オアシスは倒産するところだった。ところが私の歌がヒットしたので、借金を全て返していきなり立ち直ってしまいました。

--ところが、好事多魔(訳者注:良いことにはとかく邪魔が入りやすい例え)という問題が起きた--

「千里道」が全国のラジオで一位に上って行った時、禁止曲になってしまったのだ。♪♪トブリカシバルギルサヌルノモチョンリギル・・♪♪という歌なのだが、これが「ペホ(歌手名)」の「黄金の目」♪♪愛を知っていますか、知らないですか♪♪とメロディがそっくりだといって禁止曲になりました。ペホ氏が私より1,2年先輩で、かなり長い間売れていたのですよ。

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