名誉の殿堂(歌手部門)インタビュー

(IE4以降)

(12)「吹き込み2500曲、作詞作曲800曲、ヒット53曲」

黒字:記者】別れて出てから御両親は何とおっしゃいましたか?

緑字:羅勲児】 父は私のありさまを見るのも厭で、母は行ったり来たりしながら、ごはんもしてくれたが、心痛む息子に何と言おうか困るから、「ご飯でもちゃんと食べなくては!こら!」このようだったのです。

再起して新曲を作ってヒットしましたね。

再デビューして出した「ウルギンウェウロ」がヒットしましてね、あと「サラン」「雑草」「18歳スーニ」「ヨンヨン」「カルムリ」「ムシロ」この様な曲が次々ヒットしました。

ヒット曲は何曲になりますか?

私が正確に計算してみると53曲でした。吹き込みは2500曲余り、作詞作曲したのが800曲余りになります。
レコードを出した量をアルバムで計算すれば200枚を超え、販売量は2000万枚を超えるといいます。

作曲が本当に難しそうですが・・・・

そうではありません。歌詞作りが難しいです。歌詞さえ作ればその中でメロディが流れ出ています。それから、本能的な感覚がなければなりません。無理やりに作ろうとしてもなるものではありません。

芸能人達の中には事業をして、失敗した人が少なくないそうですが・・・

芸能人達が事業をして失敗する一番目の理由は耳が薄いということです。人が何か話をすれば「わあ、ほんと!」と、直ぐそちらに傾きます。二番目は公と私をわきまえないことです。自分の気持ち通りに幼児のようにしようとします。三番目は芸能人達は節制して暮さないです。だから約束がろくに出来ないのです。私達ビジネスをする人は日の出前に考えておいて、日が出れば直ぐその時駆け出さなければならない。駆け出さなければならない時に寝床に横たわっていていいですか?

--彼が自分が企画者である「我羅企画」を現在の位置であるソウル龍山区梨泰院洞にこの建物に建てたのは1986年だった。それから本格的にレコード制作販売業を始めたのは1989年春からであった。我羅企画という名は、やはり彼が名付けた。初作品で出したのが「サナイヌンムル(男の涙)」。以後彼は過去に彼が歌った歌も編曲して作り変えたし、他の歌手が歌って流行っていた歌謡曲も吹き込みかえて出した。後輩歌手「チュヒョンミ」と一緒にメドレーカセットテープを出してメドレー市場を席巻したりした。彼が出すレコード毎に良く売れて行って、もう「我羅企画」がやれば問屋が選ぶという会社になったという。--
10 11←戻る 12 次へ→13 14 15

我羅企画OFFICEに戻る
羅勲児日本ファンサイトTOPへ 羅勲児日本ファンサイトTOPへ 韓国旅日記・目次に戻る