【緑字:羅勲児】釜山市東区草梁2洞415番地7棟3番です。
--釜山の人では無いと言おうか、見ると、とても怖気づきそうなひとだ。船に乗っていました。マドロスだったのです。
(訳者注:原文では’船に乗っておられました。マドロスでいらっしゃいました’というように身内の人でも目上には敬語を使う絶対敬語ですが、日本語訳は日本語らしい相対敬語表現にしています。以下最後まで同様です)。
大韓民国で一番大きな貿易船に乗っていました。アフリカまでしょっちゅう通っていました。一度出かけたら六ヶ月も、一年もかかりました。そうしながら貿易をしました。
そうでは有りません。父母に恵まれて私はとても裕福に育ちました。
父が外国から買ってきた留聲器(訳者注:蓄音機の旧名)も有りました。
又、その時、私の兄と二人がソウルに遊学に来ることが出来ましたから。
当時は食べるのも大変な時代ではなかったですか?
幼い時はクラシック歌手になろうと思いました。
5年生と6年生の時、釜山市教育委員会で開催されたコンクールで連続2回、一等になりました。
6年生の時の指定曲が「♪♪松の木よ、松の木よ・・・♪♪」という「松の木」で、自由曲は「♪♪高い山の中の日陰の泉・・・♪♪」でしたよ。
兄がソウルで学校に通っていたので、私も行きたいというだけで来ました。兄と一緒にチャンウィ洞で下宿しました。
本名(チェ・ホンギ)はとても良い名前ですが何故名前を変えられたのですか?歌を始めだして、「崔弘基」が唯、普通の人の名前のようだから「チェ・フン」としようと思いました。
しかし、「崔」氏が芸術をやる人の姓のようで無かったのです。それで少し覚えやすい姓を探したのが「羅」氏です。
つぎに「勲(フン)」の字を付けたのですが「児」は続けて出てきたのです。
名前が「フン」なら呼ぶ時「フナ!」と呼ぶじゃありませんか。それで「羅勲児(ナフナ)」となったのです。
漢字で書いてみて驚きました。幼い子が勲章を受けるのを思わせる名前じゃないですか。
演劇、音楽、美術、この様なことを多く教えていました。
勉強はよくできましたか?出来ない勉強はなかったです。中学校の時、先生が班(注:組のこと)で5等内に入るとソウルの学校へ行く願書を書いてやると言ったから、私が一生懸命やると班で2番になり、全体で7番になりました。
ソウルに来て学校生活は如何でしたか?勉強は、ろくにしませんでした。
羅勲児氏がいわゆる一流学校に進学していたら今のような歌手になっていなかったのではないですか?当然です!しかし私が歌手になったことを、父は10年前、73歳で亡くなるまでずっと私を許してくれなかったのです。
えぇー「天下の羅勲児」になっても?そうです。引退してソウルに来て暮らしたのですが、そうなってからも私を認めてくれませんでした。
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