名誉の殿堂(歌手部門)インタビュー

(IE4以降)

(11)「40歳で道徳経を読んでひしと悟る」

黒字:記者】--大人の話はもう少し続く--

緑字:羅勲児】40歳になった時でした。それまで私は自ら少しは利口なものだと思っていました。40歳になって、ある本を読んでいて後頭部を殴られたようになりました。

それはどんな本ですか?
--彼は返答の代わりに机に行って「道徳経」を持ってきた--
どの部分がそんなに衝撃的だったのですか?

全体がそうでした。どんな指針にするかは、ちょっと複雑ですが、私が知らなさ過ぎたと言う思いがしました。その時から、私は人々の後ろに立とうと思いました。前に立たないで一歩後ろに立とう、こういう風に考えました。

いつ頃から、又、歌をはじめられましたか?

1980年から歌を始めました。金芝美さんと1973年に会って1981年に別れましたが1975年から歌わなくて、80年に又始めたのです。5年間歌わなかったわけです。

とても難しかったですね?

難しかったですよ。けれども、派手やかだったのです。私は歌わなかったが、毎日、週刊誌に出て、我々に対する関心は多かったから、私の歌を待つ人達は多かったのです。

その時、KBSで華麗なカムバックショーをやったのですね。

そうです。とても、はでやかでしたが、直ぐ放送出演禁止処分を受けました。

なぜですか?

「ウルギンウェウロ(何で泣く)」を歌ったら、低俗だと。笑っても冴えないがなぜ泣くか?、これでしょう。その時、80年代初めの状況だから。他の放送社ではかまわなかったが、KBSだけ放送禁止決定しました。でもこの様になるから、他の放送社も気をつけるようになって私が放送活動がろくに出来なかったのです。

別れる時一文無しで出たのではありませんか?

一文なしどころか、匙箸一つも無く出ました。有り金全部上げて出ました。それも、もっと上げて出ました。それが男らしいと思ったから。

それはどういう話でしょうか?

その時、ソウル清涼里マンモスキャバレーで一か月に一億ウォンづつ受け取ることにして、一ヶ月分を先に受け取って、3分の2は金芝美さんに上げ、3分の1で伝貰(一定の金額を不動産の所有者に預け、不動産を借りる)で押鴎亭洞現代アパート(マンション)を借りました。

放送は出来なくても「マンモス」で歌われたのですね。

そうです。そこでもヒットを打って、「マンモス」がすごく稼ぎました。夕方毎に人々が殺到して来ましたからね。そこで、一日一時間以上公演をしました。

10←戻る 11 次へ→12 13 14 15

我羅企画OFFICEに戻る
羅勲児日本ファンサイトTOPへ 羅勲児日本ファンサイトTOPへ 韓国旅日記・目次に戻る