【緑字:羅勲児】禁止曲になったので放送に出られないじゃないですか。だからソン社長がすぐ「愛は泪のたね」を出しました。そうしたらこれもまたヒットしたのです。それから「ニムグリウォ」が又爆発的にヒットし「カジマオ」が続けてヒットしたので社長がお金に困らない境遇になりました。
それなら羅勲児もお金に困らなくなったでしょうね。お金がどれくらいかも判らずしょっちゅう貰っていたのですが友人達と全て使ってしまいました。
私がこの様に世に出たので、オアシスの社長が父に挨拶に行こうと言い出したのです。
私が話をしなかったから、私の家が暮らしていけないと思ったのか、米一俵をジープに積んで、現金50万ウォンを封筒に入れてそれを持って釜山に行きました。
そうです。ところが我が家で一波乱起きました。
なぜですかその時、私たちは父が外国から帰って来たのを知って行きました。夏でした。父が白いカラムシの服を着ていました。
家に入るや、ソン社長と最敬のおじぎをしました。父が「何しに来た?」と言ったので、ソン社長が「実は歌手になられたのでご挨拶に来ました」とお辞儀をしながら50万ウォンが入った封筒を差し出しました。
米は運転手が外で降ろしていました。それを見て「金を取り出すな!米も元に戻せ」と言い、大騒ぎになって、ソン社長が全部そのまま持ってソウルに帰って行きました。私はその場で病院行き。
血色がよくなくて。だから父が、友達が経営する病院に私を放り込んだのですが、本当はソウルへ戻って馬鹿なことをしでかさないようにしようとして、そうしたのでしょう。
ところが入院したことがとてもよかったのです。肺がよくなかったのです。それで治療を受けて、すっかりよくなりました。
結局父は亡くなるまで私を許してくれなかったのです。どれほど意地が強かったか・・・・・・・・。
そうです。だから一年に何回か京畿道イチョンにある父の墓に行ってたっぷり泣いて来ます。
父の言葉を聴かなかったことを後悔していますか?切ないです。今も勉強をもっとしていたらと思います。
ところで、その時、歌手になって、それこそ前途洋洋にうまく行きましたが、万一歌手になっていなかったら何をされていたでしょうか?申しわけありません。間違いなくやくざ者になって監房に入っていることでしょう。私の友達もそんな話をします。遊び人の最後に行き着く所はそこではありませんか?間違いないことです。
そんな素質は少し有ったのですか?私は暴力だけで警察署に7回入って出てきたのですから。相手が全部やくざ者たちでした。それでただ出てこれたのです。
一般市民をなぐっただとか、私より弱い人を殴ったのなら、ただでは出て来れなかったでしょう。
私は相当に素早いです。そして少しは強いです。
--市民会館で公演中、怪漢と格闘!--芸能人達には与太者が付きまといます。
私が公演をしているのに、やくざ達が来て訳も無く客席に座っている女性達の胸を触りながら下品な言葉を言います。そうすると客席で「ウアーウアー」と騒ぎが大きくなってきます。それでは公演が出来ないでしょう?その時我慢しなければならないのですが、私はそれを我慢できなくて「おい、おまえ、こっちへ来い!」と呼び、一発、投げつけるのです。
あれは、1972年6月でした。ソウル市民会館(現、世宗文化会館)で公演していた時、誰か(キム何とか、当時29歳)が舞台へ上がって来ました。
私は握手をしに来たと思いました。知らずに手を差し出したら、割れたサイダー瓶を振りかざして来ました。
その人は私が歌を歌えないようにと、私の喉首を切ろうとしたのです。喉を切っていれば死んでいましたよ。とっさに避けて頬に傷つきました。それでもまだ続けてサイダー瓶を振りかざしてきました。それで舞台で8分間闘いました。
下ではこれをショーをしていると思い、見ていたようです。その時は「立ち回り(訳者注:羅勲児さんが’タチマワリ’という日本語を使っている)」と思い、舞台で争う演技をしていると思ったわけです。パクノシクさんのような人がそんな演技をよくするでしょう?これをそのような物と思ったのです。
臨席警察もそう思って唯見ていました。ところが、攻められるものだから、位置が変わって、私が血を流しているのが見え、又、血が客席にパラパラ飛んだので観客達がやたら泣いて大騒ぎになりましたよ。
そうこうして、私がその人を膝まづかせて警察が上がって来ましたよ。そして捕まえたのです。
南珍氏がさせた事ではなかったのです。後になって南珍氏が話したのですが、その人は「(頭が)少し足りない人」だったのですが、私を探して「羅勲児を殺す」などと訳のわからないことを言っていたそうです。それで、下(観客席)にいた人たちが連れ出して5万ウォンをあげたそうです。それだからその「足りない人」が「あぁ、これは殺せという事だな」と思った様です。
南珍さんとライバルで韓国歌謡界を両分するような期間が有りましたね。その時が本当に黄金時代でしたよ。
大韓民国の歌謡史上あのような時が再び来る事は難しいでしょう。張り合いもしましたが、相互扶助することも有りましたね。人気を貰う時、互いに助け合いになりました。
全ての面で、ライバルになるに適する相手に出会う事は難しいでしょう?故郷も南珍は湖南、羅勲児は嶺南(慶尚南北道地方のこと)だったし、顔立ちも一方(南珍)はハンサムで、もう一方(羅勲児)は牛泥棒のようだし。
歌うスタイルもあちら(南珍)はエルビスプレスリーのようにむちゃくちゃ踊りながらやるし、こちらはほとんど立ったままで歌い・・・・・・・その当時、又、金泳三氏と金大中氏が嶺南、湖南で互いにライバルで、それで、政治は誰と誰、歌は誰と誰、この様でした。
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